織田信雄(信長次男・浜野謙太)が惨敗!天正伊賀の乱「阿波口の合戦」を紹介【どうする家康】

長いものに巻かれ続ける、父と真逆の人生

織田信雄 おだ・のぶかつ
[浜野謙太 はまのけんた]

父・信長とは似つかない小心者。秀吉のあやつり人形として利用され、捨てられると家康の元へ駆け込み、小牧・長久手の戦いのきっかけを生む。父と異なる抜群の生存本能で、乱世を生き残る。

※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト(登場人物)より

……まぁ概ねその通りなんですが、もうちょっとフォローの仕方があると言うか、愛のあるアレンジはできなかったものでしょうか。戦国ファンとしてみれば、予想通りの信雄になりそうですね。

さて、そんな織田信雄は父・織田信長(演:岡田准一)とも長兄の織田信忠(のぶただ)とも違い、基本的に暗愚な人物として徳川家康(演:松本潤)の人生にからんできます。

紹介文にもある通り、何やかんやで生き延びるから父や兄より信雄の方が勝者と言えなくもありませんが、ともあれあまりいいところがありません。

という訳で、今回はそんな信雄が惨敗を喫した「(第一次)天正伊賀の乱」阿波口の合戦を紹介。

NHK大河ドラマ「どうする家康」の予習&復習になるでしょうか。

9月16日、信雄の出陣

天正七年己卯九月十六日、信雄卿松ガ島を打ち立ち、八千余騎の軍勢を前後左右に引き具しあり、侍大将には、生駒半左衛門、城戸内蔵之助、天野佐左衛門、池尻平左衛門、津川源三郎、土方彦三郎等、各々華麗に出で立ち、数万の旗印を秋風に靡かせ、甲冑差物を日光に輝かし、色めき立ちて、其の日は長野の駅に陣を居へ、……

※『伊乱記』巻之二「信雄卿阿波口合戦の事」

【意訳】時は天正7年(1579年)9月16日、伊勢国を支配していた信雄は、松ガ島から出陣。8,000余騎の軍勢を率いて、自分に反抗的な伊賀の国衆を討伐に向かいます。

侍大将として従うのは、生駒半左衛門(いこま はんざゑもん)・城戸内蔵之助(きど くらのすけ)・天野佐左衛門(あまの すけざゑもん)・池尻平左衛門(いけじり へいざゑもん)・津川源三郎(つがわ げんざぶろう)・土方彦三郎(ひじかた ひこざぶろう)……など錚々たる面々。

その軍容は華々しく、数万の旗印を秋風になびかせ、甲冑や太刀は太陽に輝いていたそうです。

ちなみに「8,000騎なのに、どうして旗印が数万もなびいているの?一人で何本も持っているの?」と疑問に思いますが、この1騎とはあくまで騎馬武者のこと。

周囲に従卒がおり、更には荷駄(輸送部隊)などがいるため、実際の人数はこれに数倍するものでした。

明けて9月17日

……明る十七日の昧爽に、嶮難幽谷の長野峠を打ち越へて、金傘の馬印を、朝露深き黒雲の中より、い可めしく差し出せば、さながら朝日の出づに異奈ら寿”、かねて軍備を定めける事なれば、軍勢を七手に分ち、阿波七郷へ乱れ入る。……

※『伊乱記』巻之二「信雄卿阿波口合戦の事」

【意訳】夜が明けて9月17日、いよいよ伊賀国へ入った信雄の馬印は、燦然と輝く金の傘。まだ朝露も残り、どんよりとした曇り空ですが、太陽が辺りを照らすようです。

事前に綿密な作戦を練っておいた信雄は将兵らに命じ、軍勢を七方面に分けて一斉に突入させました。

……伊賀勢もかねて覚悟しける事なるにより、多年嗜む所の兵衛を顕はすは、唯此度の事ぞかしと、勇み進みて敵を目かけて馳せ向ふ、或は其の分領に敵を待ち受くるもあり、或は森林奈どを小楯に取りて、寄手の勢を待ちたりけり、……

※『伊乱記』巻之二「信雄卿阿波口合戦の事」

【意訳】対する伊賀の国衆は、かねて信雄の来襲を覚悟していました。長年武の道を研鑽してきたのは、まさにこういう時のため。

それぞれ敵を待ち構えようと、峰や森など天険の地利を活かして布陣します。

4ページ目 結集した伊賀の国衆たち

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了