徳川家康の権力強化。武家諸法度の発布で支配体制を確立

湯本泰隆

大坂夏の陣で豊臣勢を滅ぼした家康は、1615(元和元)年の閏6月、一国一城令を発布しました。これは、この段階で居城として使われているもの以外の城を全て破却するといったもので、これにより諸大名の戦略は大幅に削減され、天下普請などの義務と併せて、豊臣氏が滅亡した後、徳川氏に対抗しうる勢力はいなくなりました。

また、それぞれの領国に城が一つしかなくなったことから、領主である主君に権力が一元化、家臣たちのパワーバランスもちょうどよい具合となり、主君に対する忠誠心が高まったと考えられています。

翌7月3日、家康は秀忠の名のもとに、諸大名を伏見城に集め、幕府の根本法典である武家諸法度を発布しました。これは、城郭修復の禁止などの政治規則、治安規定や儀礼規定などの約束事を定めたもので、違反者は厳罰に処せられました。

福島正則などは城を勝手に修築したことが原因で、改易という想い処分が科せられました。

武家諸法度発布の10日後には、家康は二条城に公家を招き、「公家諸法度」(禁中並公家諸法度)を制定しました。こちらも秀忠の名のもとでこそ発布されたものの、主導者は家康でした。

天皇の学問専念や公家の席次、官位や僧侶の紫衣、上人号の授与を規定したもので、公家の行動のみならず、天皇の行動まで規定しており、これにより家康を頂点とした幕府は、朝廷よりも強力な権力を手にすることになりました。家康74歳のときのことです。

このようにして、家康は、段階的に武家と公家双方の支配体制を確立していきました。

また、家康は同年、大坂夏の陣の遅参を理由に、六男・忠輝を勘当。忠輝は、伊達政宗の長女・五郎八姫(いろはひめ)と結婚し、越後を治めていましたが、家康の死後、秀忠に改易を命じられています。

 

参考

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