天正10年(1582年)3月11日、甲斐国天目山(山梨県甲州市)で自害した武田勝頼(演:眞栄田郷敦)。
ここに平安時代から数百年の永きにわたり甲斐国を治めた源氏の名門・武田家は滅び去ります。
勝頼とその嫡男・武田信勝(のぶかつ)の首級は3月14日、信濃国波合(長野県下伊那郡)まで来ていた織田信長(演:岡田准一)の元へ届けられたのでした。
亡き信玄・勝頼をなじる信長
……右府は十四日波合にて勝頼父子の首を実検せらる。その時汝が父信玄は毎度我等に難題をいひかけこまらせたり。首に成てなり共上洛したしといひしを聞しが。汝父が志をつぎて上洛せよ。我も跡よりのぼるべしと罵られ。頓て其首共を市川口の御陣へをくり見せ給ふ。……
※『東照宮御実紀』巻三 天正十年「実検勝頼父子首」
「ほう、これが武田の首級か」
首実検に臨んで、信長は口を開きます。
「勝頼よ。そなたの父・武田信玄(演:阿部寛)はいつも無理難題をふっかけて、我らを困らせおったものじゃ」
何も答えるはずもない首級に、信長はなおも続けました。
「こうも言っておったそうじゃ。『たとえ首だけになっても上洛を果たしたい』とか何とか……ちょうどよい。そなたが亡きお父上に代わって上洛せよ。わしも後から参るゆえ」
当時、信長は朝廷より勝頼討伐の勅命を得ており、その首級は京都にさらされる予定でした。
「だがその前に、首級を市川口(山梨県南部の国境)にさらせ!」
勝頼が確かに死んだことを、全軍ひいては甲斐国の領民に知らしめるため。こうして勝頼父子の首級は陣頭に梟されたのです。