呼び付けて三時間も…!織田信長の「啓蒙家」としての一面について考察する

織田信長の知識欲

戦国時代、キリスト教の宣教師から最先端の科学的知識を教わり、地球儀までもらっていた織田信長。彼は「地球は丸い」ということを理解していました。今回は、信長が貪欲に西洋の知識を吸収しようとした理由について解説します。

彼は宣教師のオルガンティーノ司祭ロレンソ修道士を厚遇して何度も呼びつけ、さまざまな質問をしたといいます。一度会えば三時間も質疑応答がなされたというほどですから、信長の好奇心もかなりのものです。

しかしそれは、何も信長が天才で、突出した合理主義者だったから……というわけではありません。戦国時代の日本人は、まだまだ宗教心や迷信が人々の行動原理となっていた部分があったのと同時に、宇宙論や科学的知識に対する好奇心も旺盛だったのです。

実際、かのフランシスコ・ザビエルの書簡にも、日本人は地球が丸いことや天体の運行、月の満ち欠けの話などをするととても喜んだと記録されています。

当時のキリスト教宣教師は、布教者としての役目と同時に、科学の教師としての役割もあったといえるでしょう。実際、イエズス会から名のある科学者が日本に送り込まれ、かなり細かい宇宙論の講義が行われたという記録もあります。

ただ、こうした知識が後世まできちんと伝えられていったかは、また別の話です。日本人の古い宇宙観には仏教系・儒教系の二種類があり、江戸時代の大学者のひとりである林羅山などは、儒教系の理屈を信奉していたようです。

啓蒙家としての一面

織田信長に特徴的だったのは、宣教師たちから教わった知識を、自分の子供たちや家臣たちにも熱心に伝えようとしていた点でしょう。いわば、彼は周囲の人々を「啓蒙」しようとしていたのです。

先に、信長はオルガンティーノやロレンソを呼んでさまざまな質問を浴びせたと書きましたが、この時、自分だけではなく給仕と称して自分の子供を同席させることも珍しくありませんでした。

また、フロイスの『日本史』によると、信長は広間で二人の宣教師を武将たちの前に呼んで、さらに部屋の外にいる人にも話が聞こえるように窓を開放したといいます。そのうえで、地球儀を持ってこさせて、宣教師たちへの「質問会」を行ったそうです。

さらに『日本史』では、信長は、宣教師たちによってもたらされる知識は日本の僧侶のものとは大きく異なっていることを知らしめたと記録されています。

宣教師の目には、織田信長という人物は見えるもの以外は信じない唯物主義・合理主義者として映っていたようです。よって、神や霊魂の話になるとやや承服しがたいものがあったそうですが、科学的知識に対する満足度はかなり高かったとか。

3ページ目 なぜ信長は啓蒙家となったか

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