薪を背負いながら読書をして歩いている二宮金次郎(にのみや きんじろう。金治郎)こと二宮尊徳(そんとく/たかのり)。
昔は「家の仕事を手伝いながら一生懸命勉強した偉い人」のお手本として、全国各地の小学校などに像が置かれていたものでした。
しかし令和の昨今では「歩きスマホと何が違うんだ。危ないじゃないか」「子供に重い家事労働を手伝わせるなんて、児童福祉に反している!」などの批判があるそうです。
それはさておき、子供の頃から一生懸命勉強したというだけなら、全国あちこちにいてもおかしくありません。
金次郎さんが特筆されたのは、それだけの活躍したからだと思いますが、果たして二宮尊徳はどんな功績を上げたのでしょうか。
今回はそんな二宮尊徳の生涯をたどってみたいと思います。
苦節を乗り越え、御家再興を果たした少年時代
二宮尊徳は江戸時代後期の天明7年(1787年)7月23日、相模国足柄上郡栢山村、現代の神奈川県小田原市に生まれました。
父は百姓の二宮利右衛門(りゑもん)、母は曽我別所村から嫁いできた好(よし。川久保太兵衛の娘)です。弟には二宮常五郎(つねごろう)と二宮富治郎(とみじろう)がいます。
金次郎が5歳となった寛政3年(1791年)8月5日、南関東を襲った暴風の影響で酒匂川の堤防が決壊。金次郎一家の住んでいた栢山村東部が濁流に押し流され、壊滅してしまいました。
元は13石の田畑と屋敷を持っていた二宮家も借金を抱えて窮乏。寛政9年(1797年)には父・利右衛門が眼病を患ってしまい、金次郎が代わりとして酒匂川堤防工事の夫役(ぶやく。領主の命じる労役およびその人足)を務めます。
しかしまだ幼いため稼ぎが少なく、昼の土方仕事から戻ると夜は草鞋を作って売ったり仲間へ配ったりしていました。
寛政12年(1800年)には利右衛門が亡くなったため、金次郎は朝から薪を伐って売り、夜は草鞋を作って一家四人の生計を支えたのです。
享和2年(1802年)には母親の好も亡くなり、金次郎は16歳で幼い弟二人を養わねばなりませんでした。
このままではどうにもならないと判断した金次郎は、弟二人を母の実家である川久保家へ預け、自身は祖父である二宮萬兵衛(まんべゑ)の元に身を寄せます。
萬兵衛の元でも勤勉に働いた金次郎でしたが、この萬兵衛がたいそうケチで意地悪だったそうです。
日中さんざんこき使った金次郎が、寝る間も惜しんで夜中に勉強しているのを「灯りに使う菜種油がもったいない」といびりました。
だったら菜種を自分で作れば文句なかろう……と金次郎は堤防にアブラナを植えて油を搾り、それで灯りを確保します。
(萬兵衛だったら「油があるなら売って家計を助けろ」などと言いそうですが、どうでしょうか)
更には搾った菜種カスを肥料として、田植えに余って捨てられた苗を育てて米一俵の収入を得ました。
どんな境遇でも自分の事業を起こす才覚は、少年時代から努力した勉学によって磨かれたのでしょうね。
文化元年(1804年)になると萬兵衛の元を出た金次郎。親族の家を転々としながら余耕田で蓄財に励み、20歳となった文化3年(1806年)に生家へ戻りました。
すっかり荒れ果てた我が家を修繕して田畑を買い戻し、また小作(田畑を貸し与えて収穫の一部を徴収するシステム)に出すなど収入減を確保します。
こうして生家を見事によみがえらせた金次郎は地主として農園経営を行うかたわら、自分は小田原に出て武家で奉公。小田原藩士の岩瀬佐兵衛(いわせ さへゑ)、槙島総右衛門(まきしま そうゑもん)らに仕えました。