戦国時代の三大遅刻と言えば諸説あるものの、徳川秀忠(とくがわ ひでただ)の遅参を挙げない方はいないのではないでしょうか。
時は慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原合戦に間に合わず、父・徳川家康(いえやす)は大激怒。戦さに勝ったからよいものの、もし敗れでもしていたら、日本の歴史はどれほど変わっていたでしょうか。
あわや勘当されそうになったところ、とりなしたのが徳川きっての謀将・本多正信(ほんだ まさのぶ)とのこと。
そこで今回は江戸時代の武士道バイブル『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』より、正信が家康を諫めたエピソードを紹介したいと思います。
佐抛大明神も御照覧候へ。汝が顔を二度……
「この大たわけがっ!」
秀忠は家康率いる本軍とは別の東山道から攻め上っていたところ、真田安房守こと真田昌幸(さなだ まさゆき)が守る上田城(長野県上田市)を攻撃しました。
「こんな小城、一息にもみ潰してくれるわ!」
……と思ったら意外や意外。小勢ながらも老練な真田は巧みな駆け引きで秀忠の大軍を翻弄。そのまま無視することも出来ない内に日を費やし、とうとう関ヶ原の決戦に間に合わなかったという次第です。
「誠に申し訳ございませぬ!」
「いいや許さん!佐抛大明神(さなぎだいみょうじん※)に誓って、そなたの顔など二度と……」
※大和国吉野郡(奈良県吉野郡吉野町吉野山)に鎮座、御祭神は怪力で知られる天之手力男神(アメノタヂカラオノカミ)。佐抛は「さ(強調)投ぎ=放り投げ」に通じ、家康は「秀忠を放り投げる≒絶縁」しようとしていたのでしょう。