仁義なき戦いにピリオドを打て!細川・足利の将軍争奪戦を制した男・三好長慶【後編】

細川晴元との戦い再び

【前編】では、三好長慶が受け継いだ父の代からの因縁や、十代にして細川晴元のもとで名を上げていった経緯を解説しました。

仁義なき戦いにピリオドを打て!細川・足利の将軍争奪戦を制した男・三好長慶【前編】

父の代からの因縁戦国時代は、北条早雲や斎藤道三の登場によって「始まり」とする見方が多いですが、明応の政変からの将軍職をめぐるゴタゴタに一応のケリをつけつつ、最初の「天下人」とされた三好長慶の存在も…

さて、細川晴元と一向一揆の和睦を進めた三好氏ですが、それで細川との立場が逆転したわけではありません。結局は管領である晴元に従わなければならない立場で、長慶も晴元の配下の人間として働きます。

とはいえ、晴元と一向一揆の和睦を成立させた実績もあり、長慶は摂津西半国守護代の地位を与えられます。このことによって堺へ進出することが可能になり、長慶は弟たちに阿波を任せながら勢力を広げていきました。

そんな彼ですが、やはりいつまでも晴元のもとには留まりませんでした。1548年、長慶は、三好氏の一人である三好政長と対立します。実は政長は晴元の側近で、長慶の父親である三好元長が自害に追い込まれた時も、一向一揆扇動の動きを主導したのが政長だったのです。

そして1549年、長慶は江口の戦いで晴元と政長に反旗を翻す形になり、これに勝利します。政長は討ち取られ、晴元は九死に一生を得たものの、長慶からさらに攻められることを恐れて近江へ逃れていったのです。

政権確立

さて、江口の戦いに敗れた細川晴元は、前の将軍だった足利義晴と、13代将軍・義輝と行動を共にするようになりました。

そうしている間に、長慶は1553年には芥川山城を落として居城とします。彼は将軍を擁立せずに畿内支配を実現したことから、まさにこの人こそ天下人、という評価を受けることになります。

こうして細川晴元政権を崩壊させた三好長慶ですが、彼の進出は止まりません。1558年には、晴元が身を寄せていた足利義輝と和睦して京都へと迎えます。

さらに細川氏の家督を細川氏綱に継がせた上に管領に就けるなどし、将軍および管領を傀儡化することで、長慶をトップとする政権が確立されたのでした。

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