徳川家康は天下人として「異常」だった?その気質と人格について掘り下げてみる

徳川家康の人間的魅力

戦国時代から江戸時代にかけての「天下人の系譜」を作るとしたら、言うまでもなく織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康のラインになりますが、最終的に徳川家康が完全な天下統一を果たせた大きな要因はなんだったのでしょうか。その理由について考察してみましょう。

静岡駅前の徳川家康像

家康の天下取りの姿勢と言えば「鳴くまで待とうホトトギス」の喩えのように、戦国武将としては冴えなかったけど耐え忍び、ひたすら待ち続けたというイメージがあります。

しかしそれにしては、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の徳川四天王や、酒井・本多・大久保の三河武士などの優秀な家臣を従えたりしており、家康にかなりの人間的魅力があったことは間違いないでしょう。

では、完全な天下人になれなかった信長と秀吉にはなく、家康にあったものは何でしょうか。それはおそらく懐の深さでしょう。

異常な鷹揚さ?

徳川家康は懐の深い、大きな度量の人物でした。例えば、家康を苦しめた三河一向一揆では、裏切り者の本田正信を重用しています。また渡辺守綱も家康から許されていますし、今川・武田・北条方の武将であっても家臣として採用しています。

下剋上が当たり前の乱世で、考えてみればこれはかなりの度量でしょう。織田信長なら、全て斬って捨てたとしても不思議ではありません。

乱世の雄というと信長の異常な苛烈さにスポットライトが当たりがちですが、敵方の武将であってもどんどん迎え入れる家康の鷹揚さも、ある意味で異常です。異常と言っては語弊がありますが、やはり「ただ者ではなかった」のは間違いないでしょう。

この点については、人たらしとまで言われた豊臣秀吉はそれなりの度量の広さが伺えますが、しかし晩年には異常な行動が目立ち、人間的には晩節を汚した部分があることは否めません。

3ページ目 リーダーとしてのパーソナリティ

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