前編のあらすじ
徳川家康(とくがわ いえやす)の人質時代からずっと忠義を尽くしてきた天野康景(あまの やすかげ)。三河一向一揆や姉川・三方ヶ原など数々の戦さで武功を重ね、家康を支え続けました。
前回の記事
忠義一筋!人質時代から天下人まで、ずっと徳川家康を支え続けた天野康景・前編【どうする家康】
そんな中、又しても家康を苦難が襲うのですが、康景たちはどう乗り越えたのでしょうか。
苦難の伊賀越えで影武者を務める
さて、着実に勢力を伸ばしていた家康ですが、天正10年(1582年)に三方ヶ原以来の大ピンチが襲います。
6月2日に京都・本能寺で家康の盟友(実質的に盟主・庇護者)であった織田信長(おだ のぶなが)が横死。
その時、堺にいた家康は動転のあまり「上洛して追い腹を切る」などと言い出してしまいます。
「落ち着いて下さい。御屋形様のなすべきは、追い腹よりも織田殿へ謀叛した明智光秀(あけち みつひで)への仇討ちにございます」
「そうです。まずは急ぎ本国へ戻り、軍勢を整えましょうぞ」
本多忠勝(ほんだ ただかつ)はじめわずかな供しか連れていなかった家康は、堺より伊賀を越えて岡崎へ帰還(いわゆる神君伊賀越え)。とは言え、その道中は中央の混乱に乗じて落ち武者狩りが横行しており、決して油断のならない状況でした。
「それがしが御屋形様の鎧を着て影武者となりましょう」
康景は家康の鎧を着ることで人目を引きつけ、いざ襲われた時も奮戦して野盗らを撃退したということです。
果たして無事に岡崎へ生還できた家康一行ですが、そのころには一足先に織田家の重臣・羽柴秀吉(はしば ひでよし。後に豊臣秀吉)が明智光秀を討ち滅ぼし、織田政権の継承を逃してしまいました。
その後、秀吉は同じく織田重臣の柴田勝家(しばた かついえ)を滅ぼして織田家を掌握、家康を西から脅かします。一方の東は南関東の雄・北条氏直(ほうじょう うじなお)が勢力をのばしており、家康は北条との同盟を堅持して秀吉との対決姿勢を整えます。
康景は天正11年(1583年)に駿河国江尻城(現:静岡県静岡市)の城代として背後を固めました。
本当は最前線(西)へ出たかったでしょうが、めったな者に背中は預けられません。康景が守っていたからこそ、家康は秀吉との対決に専念できたのでしょう。