儒学者には不評だった織田信長
今、戦国時代の英雄と言えば一番に名前が挙がる織田信長。しかし、その高評価ぶりはわりと最近のもので、江戸時代は意外と評価が低かったのです。その理由を探ってみましょう。
信長は、江戸時代、特に儒学者の間では評価が低かったようです。
儒教において理想とされる政治は、統治者が仁徳をもって人民を治めるというものでした。これは「徳治主義」という孔子の統治論に由来するもので、武力や策略によって人々を支配する政治は好まれませんでした。
信長の政治はまさに武力や策略で治めるという側面が強く、これは「覇道」と呼ばれるものです。そんな信長の政治を批判した江戸時代の儒学者には、どのような人がいたのでしょうか。
小瀬甫庵と新井白石の評価
まず、小瀬甫庵(おぜ・ほあん)という江戸時代初期に活躍した儒学者がいます。豊臣秀吉の伝記である『太閤記』や、信長を題材とした仮名草子『甫庵信長記』の著者として知られている人物です。
甫庵は『甫庵信長記』の中で、信長が家臣の諫言に耳を傾けなかったことを批判しました。仁義をもって家臣に接していたならば、その家臣の裏切りによって滅亡することはなかったのではないか、というのです。
光秀の謀反で命を落とした信長の最期から逆算して、その政治を儒教的な考えに結び付けたのでしょう。
ちなみに甫庵は同書の中で信長に対し、知勇兼備の名将であり、能力を持つ人材を見つけ出す力があったとも評しています。
次に、有名な新井白石(あらい・はくせき)の批判を見ていきましょう。
彼は江戸時代中期の朱子学者です。その著書『読史余論』の中で、彼は信長を「天性残忍」と評価し、詐力によって権力を得た信長の滅亡は自業自得である、と述べました。
ここで言う詐力とは、信長が足利義昭を利用して力を付けていったことを指していると考えられます。
さらに、先の甫庵による、「信長には人を見る目がある」という主張についても白石は批判します。
彼は、信長の代表的な家臣である明智光秀や豊臣秀吉が、ことごとく信長を裏切ったり織田家を差し置いて天下人になったりした結果に着目し、能力を見る目だけでは人を判断することはできない、と主張しました。
これについては、白石が江戸幕府6代将軍である徳川家宣の側近であったことから、信長やその家臣を貶めるような書き方になっているのではとも考えられています。