NHKの大河ドラマ鎌倉殿の13人で、登場するないなや並外れた存在感を見せつけている源義経(演:菅田将暉)。
誰もが思いつかないような戦術を実行し、切れ者梶原景時(演:中村獅童)をも唸らせる義経は、史実でも奇襲・奇策を用いて平氏を追い詰めていきます。
今回は、前編・後編の2回にわたり義経が行った奇襲・奇策の中でも有名な「一ノ谷の戦い・逆落とし」に焦点を当て、その真相を探っていきます。
前編の記事【真説 鎌倉殿の13人】源義経が一ノ谷の戦いで行った奇襲・逆落としの真相は三種の神器の奪回にあった【前編】
【後編】は実際に逆落としが行われた場所とその目的についてお話ししましょう。
義経が行った逆落としの真相を探る
「逆落とし」の場所は一ノ谷の背後か鵯越か
逆落としの奇襲による源義経の働きで大勝利を挙げた源氏軍。実は義経が逆落としを行った場所には2つの説があるのです。
一つは一ノ谷の背後の鉄拐山(てっかいさん)とする説。もう一つは『平家物語』『吾妻鑑』に描かれた鵯越(ひよどりごえ)とする説です。上の図のように鵯越は福原の背後に位置します。
義経が行った奇襲「逆落とし」は一般に「鵯越の逆落とし」と呼ばれています。そうなると義経軍は安田義定とともに鵯越から平通盛が守る夢野口を攻めたことになるのです。
しかし、『鎌倉殿の13人』では、先に述べたように一ノ谷の背後の鉄拐山説をとっています。では、一体どちらが正しいのでしょうか。
まず考えたいのは、源氏本軍が陣取った生田口からそれぞれの候補地までどれ位の距離があるかということです。現在の道筋になりますが山側を通った場合、生田口から鉄拐山までは約18キロ、鵯越までは約5キロの距離になります。
2月7日午前8時に生田口で源範頼軍と平知盛軍が戦端を開きます。これが合戦の開始となる「矢合わせ」ですので、ほぼ同時刻に夢野口、塩屋口でも戦闘が始まったとみるべきではないでしょうか。
この時点で、義経がいたと考えられるのは、生田口・鵯越・鉄拐山の3カ所です。そして一ノ谷の戦いは午前8時に戦端が開かれ、午前10時頃には平氏の敗北が決定的になっています。(時の右大臣九条兼実の日記『玉葉』の1183(寿永3)年2月8日条)
つまり、義経は開戦から2時間の間に「逆落とし」を行い、さらに平氏軍と戦わなければならないのです。
人間が1キロ進むのに要する時間は徒歩で約13分、走りで約8分とされます。義経率いる別動隊は騎馬兵だけではなく、多くは徒歩兵で占められていたはずです。それも完全武装で山間の悪路を進むわけですから、どんなに速くても1キロ進むのに10分はかかったことでしょう。
このように考え、義経が開戦と同時に移動を始めたとすると、
(1)生田口→鵯越(5キロ・50分)/生田口8時に出発、鵯越に9時に到着。
(2)生田口→鉄拐山(18キロ・3時間)/生田口8時に出発、鉄拐山に11時に到着。
という計算が成り立ちます。これはしつこいようですが、義経が開戦と同時に生田口を出発したと仮定しての計算になります。(1)は戦闘に間に合います。(2)は戦闘に間に合いません。
次に義経が、開戦時間の8時に鵯越にいたと仮定しましょう。そして、安田義定に別動隊本体を任せ、自分は遊撃隊70騎を率いて鉄拐山に向かったとします。
すると、
(3)鵯越→鉄拐山(13キロ・2時間10分)/鵯越8時に出発、鉄拐山に10時10分に到着。
という計算になります。(3)の場合もすでに戦いの趨勢は決まっていて義経の「逆落とし」が決定打になったとはいえません。