武田四天王・山県昌景
「赤備え」の武人として有名な武田四天王の1人、山県昌景(やまがた・まさかげ)。彼は強いだけではなく、有能な文官でもありました。
昌景は武田家譜代の飯富氏の出身で飯富虎昌の弟(甥という説も)にあたり、初めは飯富源四郎、のちに飯富三郎兵衛と称していました。
信玄の側近・御使番衆12人の1人となり、天文21(1552)年には若くして騎馬150持の侍大将に抜擢され、さらに内政面でも活躍を見せています。
永禄4(1561)年の第四次川中島合戦では信玄本隊の前衛を守備し、味方が苦戦する中で上杉勢の柿崎景家と互角に戦いを繰り広げています。
そんな昌景の人生の最大の危機は、永禄8(1565)年10月に起きた武田義信事件でした。
武田家は今川・北条両家と三国同盟を結んでいましたが、今川家は桶狭間の戦いで没落。信玄はこちらに見切りをつけ、同盟を解消して駿河へ進出することを考えます。
しかし、嫡男の義信がこれに反対(彼は今川義元の娘を正室としていました)。二人は仲違いし、義信は信玄追放のクーデターを計画しました。
この企てを察知したのが昌景です。彼の密告でクーデターは阻止され、関係者は処刑・幽閉・死亡しました。
その後、昌景は信玄から、譜代家老の家柄である「山県氏」の姓を継ぐよう計らわれ、ここに「山県昌景」が誕生したのです。
その後、「赤備え」と呼ばれた昌景の隊は各地の戦場で活躍し、周辺諸国から畏怖されるようになります。
こうして、昌景は武人として活躍する一方、永禄10(1567)年には裁判・検断権(警察権)の管掌、諸役免許や参陣命令、寺社支配などを司る職に任命されています。また、外交面では会津の蘆名氏や徳川家康との同盟締結に尽力しました。