「脳卒中説」は怪しい
戦国武将の死因を探っていると、意外な人が意外なところで亡くなっていることが多いですね。
討ち死にならともかく、意外と「病死」があったりして、屈強な戦国武将でも体の不調には敵わなかったのだなと感じます。
今回はそんな中でも代表格の上杉謙信(うえすぎけんしん)の死と、その死因について探ってみます。
上杉謙信は1578年、将軍家から上洛の要請を受けて、遠征の準備をしていたところ49歳で急死しました。
彼の死因について、これまで最も有力視されてきたのが「脳卒中」です。
これは、謙信が酒好きだったことを根拠としています。彼は梅干を肴によく酒を飲んでいたそうで、アルコールと塩分の過剰摂取で血圧も相当高かったろうと想像でき、なるほどいつ脳卒中で倒れてもおかしくありません。
さらに、脳卒中死因説を補強しているのが、軍記『甲陽軍鑑』です。それには「寅の三月九日に謙信閑所にて煩出し、五日煩い」とあり、この「閑所」が「厠」すなわちトイレとして解釈されてきたのです。
普段から血圧の高い人が、寒い時期にトイレで脳卒中。これは確かによくある話です。
ただ、この従来の通説にも疑問が残ります。
まず、謙信が酒好きだったのはさまざまな資料に残っている事実なので間違いないと思われるものの、健康を害するほどの酒飲みだったという根拠はありません。
上杉家に関する軍学書『北越軍談』にも、彼が酔いつぶれるほどお酒を飲むとは記されていないのです。
また、武神・毘沙門天の熱心な信仰者だった謙信は、日頃は倹約に努め質素に過ごしていたと云われています。
さらに、倒れた後も意識があったのは間違いありません。まず、「景勝を本丸に入れて、おのおの補佐すること」という遺言が残されており、さらに『甲陽軍鑑』には「一期の栄は一盃の酒 四十九年は一酔の間 生を知らず死また知らず 歳月またこれ夢中の如し」という辞世の句も記録されています。
遺言を残したり辞世の句を読める程度には心身の自由が利いたということです。脳卒中で倒れた人が、ここまでできるものでしょうか。
では、脳卒中でないとすれば何でしょう。その手掛かりは他のところにあります。