日本の海賊「倭寇(わこう)」とは何者だったのか?その正体と対策の歴史をたどる

政治不安の申し子「倭寇」

「倭寇」という名前は、歴史の教科書でも目にしたことがありますね。「海賊」として紹介されており、室町時代の「勘合貿易」は倭寇への対応策を踏まえて行われたことも有名です。

しかしこの「倭寇」、単なる海賊と呼ぶにはけっこう複雑な素性の人たちだったのです。

本稿では、その実像に迫ります。

日本人が倭寇として明や朝鮮を襲うようになったきっかけは、鎌倉時代中期の「元寇」から始まった東アジア情勢の混乱が原因と言われています。

中国では紅巾の乱が原因でモンゴル帝国が衰退し、高麗は元との長い戦いのため疲弊。こうして大陸・半島では社会不安、政治の混乱が続いていました。

一方、日本では鎌倉幕府が滅亡して南北朝の争乱が続き、北九州の御家人や農民が窮乏していました。

そんな中、倭寇は九州北部の島々を拠点として活動していたといいます。

その実態は、壱岐・対馬・松浦地方の土豪や商人、漁民を中心に結成された「水軍」で、それに高麗の海賊も加わった武装集団でした。

彼らは、朝鮮半島や明の沿岸部分を頻繁に襲撃し、略奪行為を繰り返していたといいます。

島や沿岸部に住む人々にとって、海賊行為は生計を立てる手段でした。貧しい土地で畑を耕すよりも、得意の船を使って周辺を略奪する方が手っ取り早かったのです。

また、倭寇が活躍していた南北朝時代は、九州地方は戦乱の舞台でもありました。

よってそこに住む人々は、戦争に必要な兵糧を確保するためにも、大陸へ行き略奪を働かざるを得なかった部分があります。

略奪だけではありません。倭寇たちは、たびたび商船から通行料を取ることもありました。

2ページ目 貿易体制の整備で鎮静化

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