江戸時代のお家騒動は色々なところで起きましたが、そのなかのひとつである「野村騒動」というのを聞いたことがあるでしょうか?
この騒動は、有罪となった人物の一族44名が死罪となり、370人あまりの関係者も処罰を受けたというショッキングな結果となったのです。では、なぜそのようなむごい結果となってしまったのでしょう?
今回の記事では、そんな野村騒動の背景や結果などについて詳しくご紹介したいと思います。
野村騒動の概要とは?
野村騒動とは、江戸時代中期(1710年(宝永7年))に伊勢桑名藩で起きたお家騒動です。当時の伊勢桑名藩主は3代目の松平定重(まつだいら さだしげ)。
騒動の中心となる人物は野村増右衛門(のむら ますえもん)という郡代(ぐんだい:郡単位の代官(郡奉行なら奉行)のことを指します)です。
野村騒動の背景は災害にあり
騒動と代官がどのようにつながってくるのか?と思われる方も多いかもしれませんが、3代藩主・松平定重が治めていたころ、桑名藩では水害や火災など多くの天災に見舞われていました。
特に天和元年(1681年)の洪水では被害が大きく、家臣の減給や人員削減が行われました。元禄14年(1701年)に起きた桑名城下の大火災でも多くの建物が焼失し、財政が大幅に悪化していきました。
藩立て直しのヒーロー・野村増右衛門
このように藩が数々の災害に見舞われていた時期に活躍したのが、野村増右衛門(のむら ますえもん)という人物です。
彼は藩の復興事業に力を入れ、河川工事や農地開発、道路補修など現在で言う公共事業の工事を多く行いました。
優れた才能を持つ人物だったため、元々は8石2人扶持という微禄だったものが、最終的に750石の郡代という異例の昇進を遂げました。