白拍子と言えば静御前(しずかごぜん)が有名ながら、当然他にも多くの白拍子が活躍。歌舞音曲などの芸能をもって宴席などに華を添えていました。
源義経との恋を引き裂かれた悲劇のヒロイン・静御前。その職業「白拍子」とは?
今回はそんな一人・微妙(びみょう)のエピソードを紹介。彼女の生涯を追ってみたいと思います。
生き別れの父を求めて……
微妙は生年不詳、京都の公家・藤原為成(ふじわらの ためなり)の娘として誕生しました。
両親に愛されたであろう幸せな日々も束の間、建久年間(1190年~1199年)に父が讒言(ざんげん)のために奥州へと追放されてしまいます。
妻子の同伴は叶わず、家族を引き裂かれた悲しみのあまり母は病床に臥し、間もなく亡くなってしまいました。
7歳で孤児となってしまった微妙は奥州で音信不通となっている父を探すため、白拍子に弟子入りします。
舞の修行を積みながら生計を立て、各地を巡る中で父の情報をつかめるかも知れない。そう考えたのかも知れません。
果たして精進を重ねた微妙は達人の域に達したらしく、微妙の芸名で呼ばれるようになりました。
現代で「微妙(びみょ~)」と聞くと、何となく「良いとも悪いともハッキリ言えない」どっちかと言えば「悪いと言いたいが諸事情により言えない」といったネガティブなニュアンスが連想されます。
しかし微妙とは本来、仏教用語で「みみょう」すなわち「言葉では言い表せない不思議な奥深さ、素晴らしさ」を表わすもの。現代なら「絶妙」に近いでしょうか。
それほどまでに素晴らしい腕前ならば……と建仁2年(1202年)3月。時の将軍・源頼家(みなもとの よりいえ)に召し出され、その舞を披露しました。
すっかり感動した頼家が「望みのままに褒美をとらせよう」と声をかけたところ、微妙はこれまでの生い立ちと旅の目的を伝えます。
話しを聞いた一同は涙を流して微妙の親孝行ぶりを賞賛、頼家は早急に奥州へ使者を遣わしました。
「これまで遠路ご苦労だったな。父君は使いの者に探させるゆえ、しばし鎌倉で休むがよい」
「ありがたき幸せにございまする」
数日後に母の北条政子(ほうじょう まさこ)にも舞を披露させ、微妙は政子の館に引き取られます。