種子島で製造された「火縄銃」
「鉄砲の伝来」というと、小学校時代の教科書を思い出します。そこにはイメージイラストが載っていて、ヨーロッパ人と日本人が砂浜の砂に文字や絵を描いて「筆談」をしている場面でした。
大人になってから改めて思います、あれはあくまでも小学校時代のイメージであって、鉄砲が日本に伝わった実際の経緯はどんな感じだったんだろう? と。本稿ではそれを辿ってみたいと思います。
まず、鉄砲の伝来と言えば1543(天文12)年、現在の鹿児島県・大隅諸島の一角にあたる種子島に、中国(当時は明)船が漂着し、そこに乗っていたポルトガル人の商人から新型武器の情報がもたらされた、ということになっています。
しかしこれは正確ではないようで、実際にはポルトガル人が乗っていたのは、いわゆる海賊とされる「倭寇」の船だったとか。
キリスト教の布教などの目的でやってきていた宣教師や商人が、倭寇と遭遇したのです。そして倭寇は彼らが持っていた新型武器に目をつけました。彼らは「これは売れる」と判断して日本に紹介した、というのが真相だとも言われています。
さて、もたらされた新型武器の情報に興味を持ったのが、島の領主・種子島時堯(ときたか)でした。彼はさっそく、その武器を2挺購入します。
時は戦国時代。おそらく単なる好奇心ではなく、「これは使える」と踏んだのでしょう。彼は鉄砲を分解したり、家臣に火薬調合を学ばせたりするなどして研究を重ねます。足りないパーツなども、別の外国船に載っていた人から教わるなどしたそうです。
こうして、翌年には日本初とされる国産の鉄砲を完成させました。さらに一年後には数十挺完成させ、量産することが可能となり、「新しい武器が誕生した」という情報が商人を通じて本土に行き渡ることになりました。
戦国時代のハニートラップ!日本初の火縄銃づくりに貞操を捧げた17歳の乙女「若狭」【前編】
これが「火縄銃」です。その名前の由来はもちろん、火縄を使って発火するからですが、地名を取って「種子島」とか「種子島銃」などとも呼ばれたそうです。