いきなりですが、小代行平(しょうだい ゆきひら)という御家人をご存じでしょうか。
……などと偉そうに言っている筆者も調べるまで知りませんでしたが、この人物が何者かと言いますと、源頼朝(みなもとの よりとも)公はじめ鎌倉幕府に仕えた武士として『吾妻鏡』に記録が残っています。
『吾妻鏡』には6回ほど登場しますが、どのシーンにおいても(合戦や行事の参加者など)名前を連ねているばかりで、それはそれで名誉ではあるものの、物語的には正直モブキャラ(その他大勢)に過ぎません。
しかし頼朝公はそうした者たちにも心を配っており、行平や御家人たちを魅了していました。
今回は頼朝公の心遣いに感激した行平の置文(おきぶみ。沙弥宗妙小代伊重置文『小代文書』)を紹介。
子孫に向けて書かれた自慢話から、行平の喜びぶりと頼朝公の人間力が垣間見えてきます。
行平ガ肩ヲ抑ヘサセ給ヒテ……
小代八郎行平は坂東の武士団連合・武蔵七党(むさししちとう)の一つである児玉党(こだまとう)の構成員で、武蔵国比企郡小代郷を領したことから小代氏を名乗っていました。
治承4年(1180年)に頼朝公が反平氏の兵を挙げるとこれに呼応し、源範頼(のりより。頼朝公の異母弟)に従って一ノ谷合戦や奥州征伐などで武功を立てたことから、越後国青木庄などの地頭職を得ます。
まさに中堅どころと言った感じですが、そんな行平にとって人生のハイライトとも言えるエピソードの一つがこちら。
右大将ノ御料、伊豆ノ御山に御参詣ノ時、行平御供随兵ヲ勤メタルニ、御料石橋ヲ下セ給フトキ、行平ガ肩ヲ抑ヘサセ給ヒテ、御心安キ者ノニ思シ食ス由ノ御定ニ預カリキ。面目ヲ施コシタリキ。
※沙弥宗妙小代伊重置文より(行平の書いた原文は残っておらず、子孫の小代伊重が14世紀初頭に書き写したもの)。
【意訳】頼朝公(右大将ノ御料)が伊豆山神社へ参拝した時、行平が御供の随兵(ずいひょう。親衛警固)を務めた。
頼朝公が境内の石橋を下りた時、その場にいた行平の肩を軽くおさえて「そなたを心安く思っておるぞ」と声をかけて下さり、たいへん光栄だった。
はたで聞いても「え……それだけ?」もしくは「あ、そう。まぁよかったね」くらいしかリアクションのとりようがない話です。
しかし行平はこれを源平合戦や奥州征伐、そして頼朝公の死後に勃発した比企の乱における武勇伝と同列に語っており、彼にとっていかに頼朝公の存在が偉大であったかがよく解ります。