昔から「生兵法(なまびょうほう)は怪我のもと」などと言う通り、中途半端に学んだスキルや知識をひけらかしたさに、わざわざトラブルなどに首を突っ込んでは手痛い思いをする事例は後を絶ちません。
学ぶならしっかりと学んで身につけないと、役に立たないばかりか却って有害となりかねないことを戒めている訳ですが、兵法(武芸や軍略)を生業とする武士たちにとっては、より一層切実な教えだったようです。
そこで今回は江戸時代の武士道バイブルとして有名な『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』より、兵法や奉公に対する心構えを紹介したいと思います。
目を塞ぎ、一足なりとも踏み込みて……中野神右衛門の申し候は
六〇 中野神右衛門申し候は、「兵法などは習ふ事無益なり。目を塞ぎ、一足なりとも踏み込みてうたねば役に立たざるものなり。」と。彌永佐助も同然申し候。
※『葉隠』巻第十一より
【意訳】中野神右衛門(なかの じんゑもん。清明)の言うには「兵法なんか学んでも何の役にも立たない。目をふさいで一歩でも前に踏み出して、敵を討たねば主君の役には立たないのだから」との事で、彌永佐助(やなが さすけ)も同じことを言っていた。
……中野神右衛門とは『葉隠』の口述者である山本常朝(やまもと じょうちょう)の祖父で、彌永佐助については詳細未詳ながら、祖父の同僚か少なくとも同じ佐賀藩士と思われます。
無益とはいささか極端ではありながら、下手に学んでしまうと、いざ有事に際して「不利だから逃げよう」「こう命令されたが、あぁすべきだ」など、勝手な判断を生み出しかねません。
個々の兵士がめいめい勝手に戦っては組織としての統制がとれず、勝てる戦さも勝てなくなってしまうでしょう。