戦さで武勲を証明すると言ったら、敵の首級(しゅきゅう、しるし)にまさるものはありません。だから立身出世を望む者は誰でも、よりよい大将首を求めて戦場を駆けずり回ったものです。
しかし、中には目先の功名以上に信義を重んじた者もおり、自分の命も落としかねない極限状況だからこそ、その偽りなき心映えは後世に讃えられたのでした。
今回はそんな一人、天下分け目の関ヶ原合戦(慶長5・1600年9月15日)で活躍した湯浅五助(ゆあさ ごすけ。隆貞)と藤堂仁右衛門(とうどう にゑもん。高刑)のエピソードを紹介したいと思います。
我が首級と引き換えに……五助との約束
湯浅五助の生年および出自は不詳ながら、豊臣政権下の重臣・大谷刑部吉継(おおたに ぎょうぶよしつぐ)に仕え、重く用いられました。
関ヶ原合戦に敗れた主君・吉継は切腹に際して、癩(らい。ハンセン病)によって病み崩れた顔を敵に晒さぬよう五助に遺言します。
「……御意」
吉継の介錯(斬首)を済ませた五助はその首級を抱えて戦場を離脱、ここなら見つかるまいと首級を埋めたのですが、敵の追手である藤堂仁右衛門に見つかってしまったのでした。
「そこに埋めたは、大谷刑部が首級(くび)なるか!」
最早これまでと観念した五助。しかし一縷の望みに賭けて、仁右衛門へ取引を持ちかけます。
「藤堂殿……我が首は差し出すゆえ、どうか主の首級はお見逃し下さらぬか」
仁右衛門にしてみれば、吉継の首級を諦める代わり、五助の首級だけは確実に手に入る、悪い話ではありません。
もちろんこの場で五助を討ち取れば、首級は2つ手に入るのですが、何せ五助は手強いですから、返り討ちにされてしまい、手柄どころか自分の命さえ失います。
かと言って、一度引き返して増援を要請すれば五助は討てるし、覚えた吉継の首級も掘り返せるでしょうが、自分の手柄としては限りなく評価が低下してしまうでしょう。
一番よいのは、五助を討ち取ってから約束を反故にすれば、完全ノーリスクで首級が2つ手に入る……この一択です。
(そうとも、平時に友を欺くは恥なれど、戦場にて敵を欺くは武略であろう)
「……相分かった」
が、仁右衛門はそうはしませんでした。五助から首級を受け取った仁右衛門は、吉継の首級はそのまま真っ直ぐ帰陣したのでした。