貴族・公家と戦国武将って、結びつきませんよね。でも、美濃国に、名門貴族である近衛家出身の戦国武将がいたのです。
その名も、斎藤正義(さいとうまさよし)。元貴族らしく大納言の官位を得て、斎藤大納言と呼ばれていました。
今回は、そんな斎藤大納言正義の波乱に満ちた人生を紹介しましょう。
近世一の英雄と讃えられる武将
わが東濃の斎藤氏亜相公は、近世一の英雄にして、歳なお少壮なり。智名勇功をかくす。古人に過ぎたる者すくなし。堅く一城を築き、高く雲雨を凌ぐ。そのかさねを石にし、その門を鉄とする。そもそもまた精兵・吏卒は弓矢をつらね、旗しょうをたて、外衛すること光とうのごとし。
これは、斎藤大納言正義の菩提寺で開基とされる浄音寺(岐阜県可児市)に伝わる正義の肖像画の讃に書かれた文章(原文は漢文・抜粋)です。現代語に訳すと、以下のようになります。
斎藤大納言正義公は、近世一の英雄である。若いけれど、その智名や勇名は、昔から並ぶものがないほどだ。公は、堅固な一城を築いた。その城は、高い山に築かれ、石垣や鉄の門で守られている。城兵や家臣たちは、いずれも強兵揃いで、弓矢を連ね、旗を立て、敵の侵入を許さない。
讃とは、その人の徳を称えるために書かれた文章です。しかしながら、斎藤正義という人が武将として、いかに強く、いかに優れていたかを伺い知ることができるのではないでしょうか。