新選組の天才剣士・沖田総司も参考にした?柳剛流を興した剣豪・岡田惣右衛門のエピソード

幕末の京都を闊歩した剣客集団・新撰組(しんせんぐみ)

その一番隊組長として知られる、若き天才剣士・沖田総司(おきた そうじ)が得意とした技の一つに「向こう受け反撃」というものがあるそうです。

さて、これが一体いかなる技であるのか調べたところ、どういう技であるのかハッキリ説明する資料はなく、ただ「脛(すね)を斬りつける」ことしか分かりません。

とかく伝説が多い沖田総司なので、どうせこれも後世のフィクション?であろうと切り捨ててしまっても支障はなさそうですが、せっかく興味を持ったのですから、好奇心の芽を摘み取ってしまうのはもったいない。

そこで今回はこの「向こう受け反撃」について可能な限り考察を加えるヒントとして、江戸時代の剣豪・岡田惣右衛門(おかだ そうゑもん)について紹介したいと思います。

柔よく剛を制す!柳剛流を興した岡田惣右衛門の生涯

岡田惣右衛門は江戸時代中期の明和2年(1765年)、武蔵国葛飾郡惣新田、現在の埼玉県幸手市に誕生しました。

諱は奇良(きりょう。寄良とも)、惣右衛門は通称で、また十内(じゅうない)とも呼ばれており、旅立つ際に故郷の惣新田から一文字とったのかも知れませんね。

さて、そんな惣右衛門は18歳となった天明2年(1782年)ごろに故郷から江戸に出て、剣客・大河原右膳(おおがわら うぜん)に入門。心形刀流(しんぎょうとうりゅう)を学びました。

心形刀流は剣術のほか、二刀流、居合術、枕刀(小薙刀)術を伝えると共に、ただ型の見栄えだけでなく、心のあり方も重視しており、これが惣右衛門の思想や人格形成に大きな影響を与えたことでしょう。

やがて心形刀流を修めた惣右衛門は武者修行の旅に出て各地を巡り、三和無敵流(さんかむてきりゅう)、東軍新当流(とうぐんしんとうりゅう)などをモノにして自らの流派「柳剛流(りゅうこうりゅう)」を興しました。

柳剛流は柔よく剛を制するさまを柳の枝に喩えて剣術、居合術、杖術、薙刀術を伝え、その免許状に添えられた「柳に雪折れなし」の言葉が本質を表わしています。

柳剛流は、薙刀の脛払い(脛を斬り払う攻撃)に着想を得たと思われる脛斬りと、飛び違い(相手とのすれ違い)際の斬撃を多用する点に特色があり、次々と相手の脛を斬って戦闘不能にしながら自分が前進していく実戦向きな剣術と言えるでしょう。

修得段階は切紙(きりがみ)、目録(もくろく)、そして免許とシンプルで、免許を受けると独立(分派を興すこと)が認められました。

多くの修行者は20代で免許を受けたため、各地で分派が生まれましたが、これは柳剛流の底が浅いのではなく、より実戦向きで合理的(シンプル)な技術が評価されたものと考えられます。

そんな実戦性が関東地方を中心に全国各地で流行し、惣右衛門は江戸神田のお玉が池、現代の東京都千代田区に道場を開きました。

万延元年(1860年)の『武術英名録』によれば、数々の剣豪を生み出したことで知られる北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)を超える門人を抱えていたと言いますから、人気≒実力のほどがうかがわれます。

やがて惣右衛門は高弟の一条信忠(いちじょう のぶただ。岡田信忠)に岡田姓を名乗らせて後継者とし、文政9年(1826年)9月24日に62歳で世を去ったのでした。

3ページ目 「敵は身体で斬れ!」沖田総司の指導

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