「三矢の教え」はフィクションだった?戦国大名・毛利元就が息子たちに遺した教訓とは

「一本の矢は簡単に折れるが、三本まとめるとなかなか折れない。よいか。お前たち兄弟も、このように力を合わせて毛利家を守っておくれ……」

戦国時代、老い先短い病床にあった毛利元就(もうり もとなり)が、3人の息子たちに遺言したと言われる「三矢(さんし)の教え」。

血で血を洗う乱世を生き抜くためには、兄弟どうし内輪もめなどしている場合ではない……父の切実な思いを受け止めた三兄弟は、団結して毛利家を支えたのでした……めでたしめでたし。

という有名なエピソードですが、実はこれ、後世のフィクション(創作)なんだそうです。一体どういうことなのか、またフィクションにしても、元になった出来事は何かないのか、今回はその辺りを調べたので、紹介したいと思います。

元就の最期を看取ったのは三兄弟のうち隆景のみ

毛利元就には、確かに毛利隆元(たかもと。長男)、吉川元春(きっかわ もとはる。次男)、そして小早川隆景(こばやかわ たかかげ。三男)という3人の息子がいましたが、長男の隆元は元就(元亀2・1571年没)が亡くなる8年前の永禄6年(1563年)に先立っているのです。

また、次男の元春は当時遠征中だったので、実際に元就の最期を看取ったのは、三男の隆景と孫(隆元の子)の毛利輝元(てるもと)だけでした。

となれば、必然的に「三矢の教え」エピソードは史実に沿ってないことになりますが、その初出には諸説あり、江戸時代の逸話集『常山紀談(じょうざんきだん)』や『前橋旧蔵聞書(まえばしきゅうぞうききがき)』などが出典と考えられています。

ただ、これらの文献だと、元就は(史実に沿って隆元と元春を除く)大勢の息子や孫たちを集めて「一本々々の矢はたやすく折れるが、束にすれば折れない」という形で伝えており、代々語り継がれていく中で、3兄弟というシンプルで安定感のある数字とストーリーに洗練されていったのでしょう。

なので、矢を束ねた元就の遺言は「もしかしたら言ったのかも知れないけど、それを裏づける史料が確認できない」というのが正確なところです。

その長さ3メートル!元就の長い長い長い手紙

では、この「三矢の教え」エピソードが完全にフィクションなのかと言えばそうでもなく、元就が三人の息子たちに宛てた弘治3年(1557年)11月25日付の書状が遺されており、これが「三矢の教え」の元ネタと考えられています。

読んでみると、これがまた非常にくどく長ったらしいので原文は割愛しますが、紙の横幅が実に3メートルにもなったと言いますから、息子たちもいささかうんざりしたことでしょう。

「まぁた親爺が愚痴をこぼしているよ……」

その内容をかいつまんで(それでも長いのですが)紹介すると、ざっくりこんな感じです。

3ページ目 長い長い長い手紙の内容

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