時は幕末、京都の街を闊歩して不逞浪士の取り締まりに当たった剣客集団・新選組(しんせんぐみ)。
斜陽の徳川幕府を支えるべく有名な池田屋(いけだや)事件をはじめ、数々の修羅場をくぐり抜けながら、武士の世に殉じていった悲劇の英雄たちは現代でも人気を集めていますが、その資質は一朝一夕に養われたものではなかったようです。
そこで今回は、新選組の六番隊隊長・井上源三郎(いのうえ げんざぶろう)のエピソードを紹介したいと思います。
免許皆伝に10年以上…諦めず努力する才能
井上源三郎は江戸時代末期の文政12年(1829年)3月1日、武蔵国日野宿北原(現:東京都日野市)で井上藤左衛門(とうざゑもん)の三男として生まれました。
19歳となった弘化4年(1847年)ごろに剣術を志して天然理心流(てんねんりしんりゅう)に入門。後に終生の盟友となる近藤勇(こんどう いさみ)や土方歳三(ひじかた としぞう)と出会い、共に修練したと言います。
長年の研鑽に努めた源三郎は、入門から10年以上の歳月を経た万延元年(1860年)に免許皆伝。苦労したぶん喜びもひとしおだったことでしょうが、周囲に比べると遅かったようで、中には「文武ともに劣等」などと評する意地の悪い者もいたそうです。
天然理心流の修行段階には、入門から技量に応じて切紙(きりがみ)、目録(もくろく)、中極位(ちゅうごくい)目録、免許(めんきょ)、指南(しなん)免許、印可(いんか)とあったそうですが、一説には入門から中極位目録までは約5~7年かかったと言います。
※ちなみに、皆伝(かいでん)とはその流派におけるすべての武術(例:天然理心流なら剣術、居合、柔術、小具足、棍法)の免許を与えた=奥義を伝えたことを意味します(流派によって例外あり)。
そこからもう一段階先の免許までは入門から約7~10年と仮定して、源三郎が弘化4年(1847年)入門だった場合、かかった期間は13年。確かに相対的には遅めかも知れません。
しかし、逆に考えればこれは凄いことで、周囲に比べて免許皆伝が遅くとも、源三郎は決して諦めずに努力を続ける精神力の強さを持っていたと言えるでしょう。
現代に生きる私たちは、人生の選択肢が多いことや、他の楽しみがたくさんあることもあってか、例えば10年で習得できるとされる物事について、10年やってみて見込みがなければ「これ以上は時間のムダ」と見切りをつけてしまいがちです。
もちろんその判断も十分にアリですし、そもそも習得に10年かかるような道を選ぶこと自体まれでしょう。
天才剣士・沖田総司(おきた そうじ)のようにすぐマスターしてしまうのも凄い一方で、地味ではあっても源三郎のようにひたすら努力を続けられるのも、かけがえのない才能だと実感させてくれるエピソードです。