1868年1月3日から6日までの4日間、京都洛南の鳥羽・伏見において、徳川慶喜を擁する旧幕府軍と薩摩を中心に長州などを主力とする維新政府軍の間で、激戦が繰り広げられた。
戦闘は、維新政府軍の連戦連勝により、旧幕府軍はじりじりと大坂に追い詰められていく。旧幕府軍の失地回復は、大要塞・大坂城での徹底抗戦しか残されていなかった。
そんな中、1月6日の夜、慶喜は股肱(ここう)の臣を伴って、突然大坂城を脱出した。結果的に、この敵前逃亡が徳川家復権の望みを断ち切る決定打となった。
なぜ、慶喜は大坂城から逃げたのか、その真相を探っていく。
連戦連敗の現実に自問自答を繰り返す
連日にわたり、大坂城に鳥羽伏見での敗戦の報がもたらされる。その都度、平静を装いながらも、城中奥の間で、徳川慶喜は自問自答する……。
そもそも負ける戦いではなかった。
この上方で動員できる旧幕府軍は、近代装備を擁し、調練を十分に行ってきた熟練の兵が1万5千人もいる。
それに会津・桑名・藤堂・井伊など親藩・譜代各大名家の軍勢も揃っている。
この軍勢をもって薩摩・長州の軍を威圧しつつ、時を稼げばよかった。
確かに大政奉還はした。しかし、何一つ具体的な政治活動を行えない維新政府は、必ず自分に助けて欲しいと哀願してくるに違いない。
事実、ことはそのように進んでいた。岩倉具視や三条実美は、慶喜に対し妥協策を投げかけてきた。「前内大臣」の官位を称することを認め、領地返上に関しても一度審議の場に戻すと打診してきたのだ。その上で、議定職に補するというというものだった。
だが、こうした動きは、江戸における薩摩藩邸焼打ち事件で頓挫した。それがきっかけとなり鳥羽・伏見で、旧幕府軍と薩長軍の間に戦端が開かれた。それでも、強力な旧幕府軍は必ず勝利するはずであった。
では、何故だ、何故これほどもろく我が軍は敗れたのか?
その上、錦旗に叛く賊軍とは。この先自分がとるべき行動とはなんだ?
まもなく、薩摩・長州をはじめとする維新政府軍は大坂に押し寄せてくるだろう。
策を講じる時間は余りない。そうだ、やるなら今だ……。
慶喜は、なにかを悟ったように頷くと、襖の向こうで控えている小姓を呼び寄せた。そして、大坂城中にいる大名や幕閣、諸役人まで、ことごとく大広間に集まるよう命じた。