英雄も命が惜しい?天下無双の戦国武将・本多忠勝が三度も「死にたくない」と言った本意

戦国時代と言えば武士。数多の武士たちが戦場を駆け巡り、活躍した戦国乱世において「豪傑」を挙げよと言われれば皆さん「推し」は色々だと思いますが、本多忠勝(ほんだ ただかつ)をして豪傑でないと評価する戦国ファンは一人もいないでしょう。

天下を獲った徳川家康(とくがわ いえやす)に仕えた四人の名将「徳川四天王(忠勝ほか井伊直政、酒井忠次、榊原康政)」の筆頭(※異論は認めます)として数々の合戦に参加しながら、生涯かすり傷一つ負わなかったと言われる伝説級の強さを誇った忠勝ですが、彼はその生涯において三度「死にたくない」と言ったことが確認されています。

数々の修羅場をくぐり抜け、誰一人として傷をつけることができなかった豪傑がそのような弱音を吐くとは意外な気もしますが、いったいどういう理由があったのでしょうか。

家康と共に乗り越えた若き苦難の日々

その前に、まずは本多忠勝がどのくらい強かったのか、ピンと来ない方もいるかも知れませんから、ごくざっくりとその生涯を振り返ってみましょう。

忠勝は天文17年(1548年)2月8日、三河国(現:愛知県東部)の小大名・松平(まつだいら。後の徳川)家に代々仕えた本多家の長男として誕生しました。幼名は鍋之助(なべのすけ)、長じて平八郎(へいはちろう)と称します。

当時、松平家は大大名の今川義元(いまがわ よしもと)に臣従しており、家臣たちはその尖兵としてこき使われ、父・本多忠高(ただたか)も無理な作戦によって討死。当時2歳だった鍋之助は叔父の本多忠真(ただざね)に養育されました。

今川家の人質となっていた竹千代(たけちよ。家康の幼名)は5歳年上で、苦難の日々を共に乗り越え、実の兄弟以上に深い絆を育みながら、いつか独立を取り戻す日を夢に見ていたことでしょう。

初陣は13歳となった永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長(おだ のぶなが)に討ち取られると、竹千代改め松平元康(もとやす)はドサクサ紛れで独立を回復。信長の盟友として天下人への道のりを歩み出した元康を、忠勝は槍働きをもって大いに助けるのでした。

3ページ目 家康に 過ぎたるものが 二つあり…数々の武功を立てる

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