主君を次々と変えた変節漢?身長190cmを超す規格外の巨漢武将・藤堂高虎【前編】

友斉照仁

幕末の動乱が最高潮に達していた1868年1月。京都近郊で、江戸幕府軍1万5千と明治政府軍5千が激突しました。いわゆる鳥羽伏見の戦いです。

数の上では優位にあった幕府軍ですが、結果は惨敗。敗因は色々ありますが、めちゃくちゃいい場所に陣取っていた藤堂家の部隊が、幕府側から明治政府側に寝返ったことが決定的でした。

藤堂家の皆さんに言わせれば

「明治政府が天皇を擁している以上、そちらに従うのが道理」

となりましょうが、幕府軍から見れば裏切り以外の何物でもありません。批判……というより怨嗟の声が巻き起こりますが、その中のひとつにこんなものがありました。

「藤堂家は、何度も主君を変えた節操なしが興した家だからな。始祖の教えがしっかり受け継がれている」

その影響もあってか、今日でも否定的に描かれることの多い藤堂家の始祖・藤堂高虎。しかしその足跡を追ってみると、変節漢どころかむしろ義理堅い苦労人という人物像が浮かび上がってきます。

そしてその生き様からは、現代を生きる我々が参考にすべきキャリア開発やフォロワーシップを学ぶことができるのですが……まずはその前提として、高虎の生涯をご紹介しましょう。

ざっくり藤堂高虎

藤堂高虎は1556年、近江(滋賀県)に生まれました。

石田三成(1560年)、福島正則(1561年)、加藤清正(1562年)ら、後に豊臣秀吉によって取り立てられることになる大名たちと同年代。最終的な主君となる徳川家康は22歳年上、秀忠は23歳年下、家光は48歳年下です。

幼いころから大柄で、最終的には身長190センチ、体重110キロという恵まれた体格の持ち主に育ちます。当時の平均身長は154センチ程度だったと言われているので、恵まれたどころか規格外の巨漢だったと言えるでしょう。

藤堂家は武士の家柄でしたが高虎が生まれた頃には没落しており、彼は一兵卒としてそのキャリアをスタート。最終的には徳川家に仕え、伊勢、伊賀に32万石の領地を持つ大名家の創始者となります。

その経歴を見ていきましょう。

2ページ目 一人目・就職はまず地元から

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了