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秀吉に選ばれし「黄母衣衆」の猛者!小田原征伐で武功を挙げ、大坂城の猛火に阻まれ自害した野々村雅春の生涯

秀吉に選ばれし「黄母衣衆」の猛者!小田原征伐で武功を挙げ、大坂城の猛火に阻まれ自害した野々村雅春の生涯

羽柴秀吉は陣中において、黄母衣衆(きほろしゅう)と呼ばれる親衛隊を組織していました。

これは織田信長が組織していた赤母衣衆・黒母衣衆にならったもので、武勇にすぐれ忠義に厚い者たちが選抜されています。

今回はそんな黄母衣衆の一人・野々村雅春(ののむら まさはる)を紹介。果たして彼はどんな人物で、どんな生涯をたどったのでしょうか。

※黄母衣衆の“母衣(ほろ)”に関して、以下の記事で紹介しています。ぜひ合わせてご覧ください

武士の背中に風船?選ばれし者の証「母衣(ほろ)」の意味や役割ってなに?

母衣は選ばれし者の証見てください、この前田利家像。何かまあるいものが背中にくっついてますね。つい「気球に~乗って~」と口ずさんでしまいそうですが、実はこれは立派な武具なんです。…

小田原征伐で武功を重ねる

野々村雅春の生年についてはよくわかっておらず、両親や家柄についてもはっきりしたことはわかっていません。

兄の野々村正成(まさなり。三十郎)と同じく美濃国の出身と考えられます。

元服してはじめ野々村吉保(よしやす。吉安とも)と名乗り、伊予守(いよのかみ)の官途を許されました。

信長の黒母衣衆を務めていた兄に恥じない武勇と忠義を兼ね備え、秀吉の黄母衣衆に抜擢されます。

雅春の記録が特筆されるのは天正18年(1590年)の小田原征伐で、この時に武蔵(東京都及び埼玉県)・下総(千葉県北部)・上総(千葉県中部)を転戦して武功を重ねました。

仮にこれが初陣(10代半ば~後半が一般的)とした場合、逆算して元亀元年~天正3年(1570~1575年)ごろの生まれと推測できるでしょう。ただし推測の域を出るものではありません。

また秀吉を護衛する黄母衣衆の性格上、あえて記録はなくても小田原征伐よりも前から出陣していた可能性も考えられます。

2ページ目 大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いに臨む

 

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