『豊臣兄弟!』秀長の長女・末(池端杏慈)と結婚するも17歳で急死…秀長の後継者・羽柴秀保の生涯【後編】
羽柴与一郎(大西利空)を喪った後、羽柴秀長(仲野太賀)は自身の後継者として羽柴秀保(はしば ひでやす。豊臣秀保)を養子に迎えました。
まだ10代の若さで豊臣一門の筆頭格として、養父に恥じぬ活躍を重ねました。
その後、秀保はどんな生涯を駆け抜けるのでしょうか。
【前編】の記事はこちら↓
【豊臣兄弟!】13歳で末姫(池端杏慈)と祝言?秀長の後継者となった「羽柴秀保」の生涯【前編】
文禄の役では家臣を派遣
天正18年(1590年)に小田原北条氏を滅ぼして天下一統を果たした秀吉ですが、その野望は日本一国だけに留まりません。
文禄元年(1592年)から戦端が開かれた文禄の役(第一次朝鮮征伐)において、秀保らは作戦拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の普請に注力しました。
そして1万5千の兵を率いてきましたが、自身が渡海することはなく、名護屋城下に滞陣して秀吉を補佐します。
名代として家臣の藤堂高虎・桑山元晴(重晴次男)・桑山一晴(重晴嫡孫)・杉若氏宗(すぎわか うじむね)・杉若無心(むしん。氏宗父)・堀内氏善(ほりうち うじよし。熊野水軍)ほか紀伊海賊衆らを前線に派遣し、彼らは朝鮮半島の南海域で奮戦しました。
また家臣の本多俊政(ほんだ としまさ)は兵5百を率いて壱岐勝本城(長崎県壱岐島)に在番し、物資の海上輸送などの任務に当たっています。
ちなみに秀吉の野望を記録した文書集『豊太閤三国処置太早計(ほうたいこう さんごくしおき はなはだそうけい)』によると、秀吉が朝鮮半島と中国大陸を征服した後、秀保か宇喜多秀家(五大老。宇喜多直家嫡男で秀吉娘婿)のどちらかに日本の関白職を任せるつもりでいました。どこまで本気だったのかはわかりませんが……。
※『豊太閤三国処置太早計』というタイトルには「秀吉が日本・唐土・天竺の三国を支配するつもりでいるが、はなはだ早計である」という皮肉が込められています。
秀保は文禄2年(1593年)閏9月25日になると帰国していた高虎たちと一緒に名護屋城から下関(山口県下関市)へ戻り、さらに秀吉の後を追って帰洛しました。

