武田信玄の「喧嘩両成敗」に異議アリ!武田四天王の内藤修理が訴えた「男道」の精神

「喧嘩の事是非におよばず成敗加ふべし。但し取り懸るとも雖も 堪忍せしむるの輩に於いては罪科に処すべからず……」

※甲州法度之次第 第十七条より。

【意訳】喧嘩した者はどちらが良い悪い関係なく、どちらも処刑する。ただし、挑発されても、相手にしなかった者は無罪とする(後略)

甲斐国(現:山梨県)の大名・武田信玄(たけだ しんげん)公が天文十六1547年6月に制定した分国法「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)」。

上記は有名な「喧嘩両成敗」の原型の一つとなった条文ですが、これに対して異議を唱えた者がいました。

両者の耳と鼻を削ぐ!?戦国時代はケンカも過激、武田信玄「喧嘩両成敗」の実例と精神

喧嘩両成敗。兄弟や友達と喧嘩した時、両親や先生の口からよく聞かされました。「喧嘩をした者は、理由を問わず両方(あるいは全員)を罰する」その単純明快な理屈には、有無を言わさぬ力強さを感じますが、…

その者こそ、後世「武田四天王」「武田二十四将」にその名を連ね、幾多の戦場で武勲を立てた猛将・内藤修理亮昌秀(ないとう しゅりのすけ まさひで)でした。

※天文十六年の当時は工藤源左衛門祐長(くどう げんざゑもん すけなが)という名前でしたが、読者の煩を避けるため「内藤修理(ないとう しゅり)」で統一します。

3ページ目 内藤修理かく語りき「男道(おとこどう)」とは

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