人間、生きていると自分の名前以外に色んな肩書がついたりつかなかったりします。それは職業であったり、地位であったり、名誉であったり……。
しかし、いくら肩書をくっつけたところで、それはあくまでもその人の一側面に過ぎず、その本質を表すことも、価値を高めることもありません。
今回は、そんなことを考えさせられるエピソードなど、一つ紹介したいと思います。
京都府知事・北垣国道、東福寺へ
今は昔の明治時代、京都府知事の北垣晋太郎国道(きたがき しんたろう くにみち)は、かねて交流のあった東福寺の管長・敬冲(けいちゅう)和尚を訪ねました。
この北垣は天保七1836年、但馬国養父郡能座村(現:兵庫県養父市)に生まれ、28歳となった文久三1863年に倒幕運動のさきがけとなる「生野の変」に参加するもあえなく敗走。
しかし、そこで挫折することなく京都、江戸、長州と逃亡生活の末に捲土重来(カムバック)を果たした北垣は、慶応四1868年の戊辰戦争や北越戦争で武功を立て、新政府では要職を歴任します。
明治十四1881年には京都府知事に就任、同十六1883年には宮内大書記官を兼任。
かつてお尋ね者として潜伏していた頃とは打って変わり、堂々たる府政の代表者として京都の地に赴任したことは、北垣にとって恍惚の思いだったことでしょう。
さて、そんな北垣が激務の中で時間をつくり、また、敬冲和尚にも都合をつけて貰って、ようやくアポイントがとれたのでした。
随分とご無沙汰していたが、やっと和尚に会える。
二人はかねてから交流があったと伝えられますが、もしかしたら、かつて生野の変に敗れ、逃げ込んできた北垣に、敬冲が「慈悲を垂れた」事があったのかも知れません。
ともあれ北垣は従者を連れて、京都五山の第四位・東福寺の山門までやって来ました。