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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第26話
■文政八年 玉菊灯籠の夏(2)
あと、六日。
あと、五日。
あと、あと、あと。・・・・・・
国芳が久し振りに吉原遊廓を訪れるまでの日々、みつは毎朝心の中でそう数え、ようやく約束の十三日が訪れた。
明け六つ前、みつはいつもより早く目を覚まし、鏡台の曇り一つなく磨かれた鏡を熱心に覗きこんでいた。
一つ、試してみたい化粧がある。笹色紅(ささいろべに)といい、上くちびるはいつも通り、下くちびるのみ紅を厚塗りして玉虫色に光らせる。これが文化年間から江戸の奥女中や武家の姫君の間で大流行し、今時は吉原の高級女郎はもちろん、深川の芸者なども真似をしているという。
少女の頃に熱病で色覚を失ったみつは、今まで化粧の事など教えられた通りに粉やら紅やらを肌膚に乗せるだけで、工夫しようなどとは思い至った事もなかったが、今は違う。国芳との出会いがみつの心を少しずつ変えた。
(私だって、色を楽しんでいいんだ)。・・・・・・
目を閉じると浮かぶのは国芳の笑顔である。
一通り終えて鏡台を隅に片付け部屋から出ると、廊下の向こうから歩いてきた振袖新造と禿(かむろ)たちがみつの顔を見るなり驚いて口々に叫んだ。
「姐さん、くちびるが!」
「くちびるが綺麗!」
「姐さんの下くちびるが、綺麗な玉虫色に光っていんす!」
「どう?似合う?」
みつがいたずらっぽく笑うと、
「あいな、似合っていんす!粋ちょんざんす!松葉屋の看板、朝霞花魁も姐さんには敵いんせん」
少女たちの心に、憧れの紫野花魁の玉虫色の下くちびるは鮮烈であったらしい。きらきらした目がみつに向けられた。その時である。
「何だい、休みの日にいけうるさいね!」
遣り手が階段上の遣り手部屋から飛び出してきた。
「おはよう、お姐はん」
みつの顔を見るなり、ヤッ、と遣り手は飛びのいた。
「紫野!どうしたんだえ、その緑のくちびるは!」
「うふふ、やっぱし変かしら。この子たちは粋ちょんだって言ってくれたんだけれど」
「下くちびるだけてらてらしてやがる。変じゃねえのかえ」
「ええ。変でいいの。今はこれが流行っているそうよ」
「そうかい、今時は何が流行るか分からないねえ。ほら、ガキは真似すんじゃねえよ。油売ってるくれえならサッサと散って雑巾掛けの一つでもしとくんな!」
「あーい」
子どもたちはしょんぼりとしおらしい返事をした。が、遣り手が足を踏み鳴らして部屋に戻るのを確かめると、
「姐さん、姐さん」、
小声でみつに話しかけた。
「アチキは今日の姐さんのくちびる、大好きでありんす」
「ワチキも!」
「後生ですから、そのままで居てくださっし」
潤んだ瞳で祈るように言うものだから、みつはいつも可愛い禿たちが殊更堪らなく可愛く思えた。
「あ、そうだ」、
みつはつつっと部屋に戻り、鏡台から何かを取ってきた。
「これ、あげるよ」。
みつの微笑みとともに、唐花模様の紅猪口がそれぞれ一つずつ、少女の小さな手のひらにころんと落とされた。