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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第21話
◾文化八年 夏
しばしば夢に見る光景がある。もう十年以上前の事だ。・・・・・・
「てえへんだ!」
すぱんと障子をあけて、兄弟子の一人が叫んだ。
「品川にクジラが打ち上がってるってよ!」
大画室がどよめいた。
「芳、行くぞ!」
誰が立ち上がるよりも早く、いの一番に国芳の首根っこをつかんで引っ張り上げたのは、なんと師の豊国であった。
「父っつぁん!?」
「早くしろ」
いつも話しかけてくる訳でもないのに、なぜ急に自分が選ばれたのか訳も分からずに国芳は立ち上がり、豊国の後を追いかけた。
「父っつぁん早えよ」
「てめえ、クジラだぞ。見逃してたまるか?」
「そりゃア、たまるめえよ!」
国芳は生き生きと答えた。
嬉しかった。
たとえこれが、師と弟子としてではなく、親父が孫を見世物小屋に連れて行くのと同じような心境から発した行為であったとしても、それでいいと思えるほど、国芳は嬉しかった。
陽光を反射して、江戸前の青海波が燦爛とした。
日本橋上槙町の豊国の工房から品川に出るには、ひとたび外に出たら後は南にまっすぐ降りてゆく。青物市場が並ぶ大根河岸を抜け、京橋を渡り、木挽町の芝居小屋を横目にひたすら南を目指すと、やがて空気が凛と澄んでくる。鼻先につんと潮風の匂いが触れれば、その向こうに広がるのはもう、風光明媚な江戸前の景色である。
吸い込まれそうな縹色の海は、まるで水面に金銀の錦糸で緻密な刺繍を施したかのように絢爛豪華にきらきらと輝いた。振り返ると彼方に御殿山の桜が、枝の先を既にほの紅く染め始めているのが見えた。
一歩前をのしのしとゆく豊国が、周囲を見回しながら国芳に問いかけた。
「どうだ、芳。それらしい人集りが見えるか?」
「父っつぁん。あすこじゃアねえかえ」
国芳は遠方の浜の人集りを指した。
鯨のようなものはまだ見えない。
「よし、寄ってみるぞ」
「あいよ!」
二人が駆け付けると、はたしてそうであった。
「ウワア、でっけえなあ!」
喧々たる人集りの奥に、八、九間はあろうかという大鯨が黒々とした巨像を横たえている。
「ハア、これアすごいねえ」
国芳はしきりに感嘆を漏らした。鯨というものは、図鑑で見たことがある。今目の前に横たわっているのは背美鯨(せみくじら)という種類である。背美鯨は他の種と比べて下顎がやたらと大きく、口がしの字を横に倒したような不思議な形に湾曲している。体型は寸胴ではあるが小山のように盛り上がった背中の曲線が非常に美しいという意味で、その綺麗な名がついた。雌の体長は十間以上になり、雄はそれより一間ほど小さいというから、この個体は恐らく雄だろうと国芳は思った。紙の上でしか知らなかったものを初めて目にした感動は、呼吸が止まるほどであった。国芳は興奮のあまり、まだ全体が見える前から矢立を取り出して帳面にスラスラ描き始めた。人が余りに多いために、まだ背が低い国芳はぴょんぴょん跳ねながら観察しなくてはならなかった。背美鯨に似て顎の大きな豊国が呆れて、
「おめえ、ちょいと落ち着け。もちっと近寄らなきゃ・・・・・・」
「なあ、父っつぁん」
師の説教くさい言葉に被せるように、国芳は豊国の肘を指で突ついた。
「ん?」
「あの鯨、まだ生きてるぜ」
「ん、そうかえ」
「目を凝らすと、時々、ヒレがね、微かに動くんです」
「ほんにか」
「ホラ!見てくだせえ」
「ん?・・・・・・」
国芳が指を指しても、豊国には良く分からない。
(こいつ、観察眼がずば抜けていやがる)
豊国がこっそり感心している傍らで、
「助けなきゃ」、
「あ?」
「助けなきゃ、死んじまわア」。
身軽な国芳はもう尻からげして、ひょいひょいと見物人の股の間を潜り抜け、あっという間に見えなくなった。
「あ!オイ!ちょいと待ちねえ!」
豊国は慌てて、人ごみを掻き分けた。
「どいたどいた!こいつアまだ、生きてやすぜ!」
お、何やら騒々しいガキが出てきたぞ、と見物人たちはざわめいた。
「ちょいと皆さん!見てねえで、手伝ってくだせえ!」
国芳は一人で鯨の頭に両手を当てて、力を込めながら叫んだ。鯨から生々しい臭いが漂う。傍に居た漁師の男が、
「おい、小僧。こんなところに流れてくるのは珍しいんだから、活きのいいうちに掻っ捌いて、食っちまえばいいじゃアねえか」
と言うと、国芳はかぶりを振った。
「いや、駄目でさア。おいらア、こいつがこの江戸前で元気に飛沫上げて泳ぐ姿を描きてえんだ」
「何?おめえ、絵描きか?」
「まあ、将来的には」
国芳はうーん、うーんと唸りながら鯨の頭を押す。冷たい皮膚表面は張りがありつるりとしていて、何より一人で押して動かせるような代物では、到底ない。
「こいつ、本気かよ」
「本物の馬鹿っているんだな」
「ったく、仕方ねえなア」