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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第12話
■文政七年 夏と、秋(5)
引手茶屋を引き揚げた一行は、京町二丁目の裏茶屋、桐屋の奥の間に居た。
国芳とみつがいつぞや逢い引きに使ったまさにその部屋である。
「ほう」
すうっと開いた襖の向こうを覗いて、一同は感嘆した。
小づくりだが、欄間には梅に鶯を模し、床の間には薄(すすき)と女郎花(おみなえし)が飾られているなど、どこを取っても雅致(がち)のある良い部屋である。そしてやはりなんといっても青竹の連子窓の隙間から漏れる白い月光が美しい。
「ここの主人は余程の数寄者だな」
佐吉は嬉しそうに近江屋に耳打ちした。
国芳は至極真剣な表情でその部屋の隅々までを眺めたのち、
「花魁」
ついとみつの白い手を取り、連子窓の傍に横向きに座らせた。あまりに自然の事で、みつには驚く余地もなかった。
「その異国の美しい帯に」、
国芳がさりげない声で言った。
「ちょいと触れてもいいかえ」。
やや緊張した少年のような表情でそう言い、とろけるように優しく微笑した。
生成地の木綿に独特の臙脂や藍で東洋風の草花を鮮やかに模した更紗の帯は、一見した時から国芳の眼を惹きつけて仕方がなかったのだろう。
みつがつんと目を逸らすと、国芳はその帯に手を掛け、前結びにしていた帯を解き、垂れを背後に大きく広げた。
あっと言う間にしどけなく床に広がった帯は、まるで唐草や花を浮かべて移ろう大河のように、床の上に美しい流れを生み出した。
「綺麗だ」
近江屋と佐吉は驚嘆の声を漏らした。
その後も国芳は着物の裾の蔦と蜻蛉(かげろう)をよく見えるように配し、御簾紙(みすがみ)を持たせ、構図を整えた。
最後に藍鼠の手ぬぐいをみつの腕に掛けた時、
「綺麗だぜ、おみつ。・・・・・・」
みつの耳にはかすかにそう聞こえた気がしたが、顔をあげると国芳はもう傍には居なかった。
「どうです、近江屋の旦那」
国芳が少し離れた場所で腕組みをして自信たっぷりに訊いた。
連子窓の下には湯浴みするようにとろとろと月光をしたたらせる婀娜な女が一人、仕上がっていた。
真白の光が糸のように細く伝うそのうなじから、赤い蹴出しの奥に覗く白い脛(はぎ)から、吸えば酔うほどの色気が匂い立った。
「やあ、たまらねえよ。わざと芸者風にしているのもいいねえ。こんな絵出したら見世が一気に男の客で溢れらア」
近江屋は喜んで手を叩いた。
「あとアあんたの腕に任せたよ、国芳さん」
「合点」
国芳はペロリと唇を舐めるとすぐに矢立(やたて)を取り出しておもむろにさらさらと描き始めた。
「そんなら芳さんが描きあがるまで、俺ア近江屋の旦那と別の座敷で呑んでいやしょう」
佐吉の一言で男二人と新造の美のるや禿(かむろ)たちが部屋を後にし、みつと国芳が月明かりだけの部屋に二人きりになった。