関東最弱?とんでもない!鎌倉まで攻め込んで来た里見一族~大永鎌倉合戦~

歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」だと、すぐ相模(現:神奈川県)の北条氏に滅ぼされてしまう安房(現:千葉県)の戦国大名・里見一族。それで何となく「関東最弱」というイメージを持っていたのですが、調べてみると決してそんな事はなく、むしろ東京湾を渡って三浦半島一帯を荒らし回り、時にはその一部を占領していた事さえありました。

そんな里見一族が、武家の古都・鎌倉まで攻め込んで来た事がありました。

後世に伝わる「大永鎌倉合戦(たいえい かまくらがっせん)」です。

大永鎌倉合戦とは

大永六(1526)年11月、安房の里見義豊とその叔父・里見実尭が水軍を率いて相模湾を回り込み、激戦の末に鎌倉・由比ガ浜より上陸しました。

劣勢となった北条軍は扇ガ谷の方へ逃げていきましたが、里見実尭は「逃げるなら大仏道(現:大仏坂切通し)の筈なのに、おかしい。きっと罠かも知れない」と怪しみ、物見を放ったところ、やっぱり北条の伏兵がいたので、再度戦闘となります。

ここでも里見軍は敵を圧倒、北条軍はほうほうの体で本拠地・小田原の方へ逃亡、勢いに乗って追撃していたところ、戦乱の中で鶴岡八幡宮から出火してしまいます。

里見実尭は「源氏の氏神さま(※里見氏は清和源氏の末裔)である八幡宮が焼けてしまったのは縁起が悪い」と退却、後日室町幕府から罰として、その修繕費用(資金・材木など)の負担をさせられたそうです。

これが『里見軍記』などに伝わる大永鎌倉合戦(当時、鶴岡八幡宮の出火は非常にセンセーショナルな事件だったため「鶴岡八幡宮の戦い」とも言われます)の概略です。

それにしても、後に「関東の雄」として知られる北条軍を二度も撃退したとは驚きです。今後「信長の野望」でも、里見のステータス上方修正をお願いしたいものです。

2ページ目 玉縄の首塚・戸部川の合戦

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