前回、新田義貞との間に起きた争いに敗れた足利尊氏が反逆者として追われるまでを紹介しました。
持つべきは心を許せる同志。室町時代を築いたレジェンド・足利尊氏の生涯に迫る!その4
前回は足利尊氏による武士を守るための勢力が樹立されたことと、それに前後して起きた諸問題のために反逆者の汚名を受けるまでをお話しました。[insert_post id=74089]今回はその…
今回は、尊氏が起こした奇跡の大勝利と言うべきエピソードを紹介していきます。
九州で態勢を立て直した尊氏、京都目指して反撃を開始する!
赤松円心の進言で西国へ落ち延びた尊氏は、九州各地に割拠する有力者の手厚い庇護を受けます。その中には元寇で活躍した少弐氏をはじめ、薩摩の島津氏や宗像大社と言った今注目されている武家、寺社勢力もいました。
彼らの助力を受けた尊氏は多々良浜(たたらはま。今の福岡県)の戦いで官軍に味方する群雄を撃破し、後顧の憂いを断って京都に向かったのです。更に、後醍醐天皇と対立する光厳上皇から院宣(命令書)を賜っていた事で賊軍の汚名が除かれ、足利の士気は高まっていました。
一方、播磨を攻めていた新田義貞は円心の巧みな作戦に翻弄され、足利軍を取り逃がします。また、楠木正成は逆襲があることを予測し、尊氏を許して呼び戻すように朝廷に訴えますが、徒労に終わります。このように義貞ら官軍が内部争いを繰り返しているのに対し、尊氏率いる反乱軍改め上皇軍は西国の武士団や、官軍からの降伏者も加えて50万もの大軍に膨れ上がっていました。1336年5月25日、この大軍勢は摂津(兵庫県)の湊川の地で義貞が率いる5万の官軍と激突します。