前回は足利尊氏による武士を守るための勢力が樹立されたことと、それに前後して起きた諸問題のために反逆者の汚名を受けるまでをお話しました。
弟のピンチに取った行動とは?室町時代を築いたレジェンド・足利尊氏の生涯に迫る!その3
前回、足利尊氏が鎌倉幕府を倒して後醍醐天皇の重臣となるまでをお話しました。[insert_post id=73805]建武の新政で不満を抱いた武士達が彼の下に集まるのは、政権側にとっては脅…
今回はその汚名を返上した尊氏の戦いを紹介致します。
義貞なんて怖くない!でも、帝とは争いたくない…悩める尊氏は引きこもる
ところで、新田義貞が朝廷を味方にして攻めて来た時に尊氏は何をしていたでしょうか。戦の支度をしていたと思いきや、断髪して出家しようと寺に籠っていたのです。後醍醐天皇を敬愛する忠義の心を保ち続けていた尊氏は、『私は陛下に背く気はありません。お許し下さい』と訴えるべく、出家を望んだのでした。
しかし、新田軍の猛攻によって家臣の高師直(こうの・もろなお)や弟の直義が殺されかけたと聞いた時、尊氏は腹をくくります。一門、とくに弟が死んでしまえば自分に生きる意味は無いと奮起した戦の天才・尊氏の出陣によって足利軍は勢いを盛り返したのでした。
義貞も決して弱い武将ではなかったのですが、尊氏が相手では分が悪く、箱根・竹ノ下の戦いで打ち負かされた新田軍は総崩れに陥り、潰走を余儀なくされます。1335年の12月のことでした。
勝利に酔うのも束の間…盟友と天才児が襲来して尊氏はまたもピンチに!
しかし、その勝利は更なる増援を招く結果を尊氏にもたらします。東北地方から文武両道の貴族将軍として知られた北畠顕家(あきいえ)、京都からはかつての戦友で親交があった楠木正成が義貞を救うために出撃して来ました。つまり尊氏は、義貞を撃退したために彼以上の強敵を招き寄せてしまったのです。