紙芝居屋の意外な歴史。前回は紙芝居のルーツについ紹介しましたが、
紙芝居屋の意外な歴史【1】ルーツは江戸時代の幻灯と、明治・大正時代の紙人形芝居
今回は、今に続く紙芝居のスタンダードが完成するまで経緯を見ていきます。
街頭へ飛び出すきっかけは不況
まずは写し絵から紙芝居への変化の道のりを、時代順に整理しおきます。
江戸~明治の「写し絵」
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明治~大正~昭和初期の「立絵紙芝居」
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昭和初期~現代の「平絵紙芝居」
ここからは商売としての紙芝居屋に注目しながら、今に続く紙芝居のスタンダードが完成するまで経緯を見ていきましょう。
街頭紙芝居の収入源は飴でしたが、写し絵は違いました。寄席芸なので、芸そのものに対し見物料(木戸銭)が支払われていたのです。そこから派生した立絵紙芝居も、最初は寄席芸だったので見物料が支払われました。テキヤ傘下になり、祭りなどで演じられるようになってからも同じです。
ところが昭和4年頃、紙芝居を取り巻く状況が一変します。原因は、関東大震災後の大正末期の不況と、昭和4年末に始まる昭和恐慌。長い不況で失業した人が紙芝居屋に転職し、人数が大幅に増えたのです。元手が少なくて済む紙芝居屋は、比較的なりやすい職業だったためでした。
そうなると、祭りや縁日だけでは紙芝居屋全員に仕事が回らない状態になります。人数に対して働く場所と時間が少なすぎるというわけです。
そこで紙芝居屋はテキヤから独立し、祭礼ではなく平日に商売をする道を選びました。テキヤ側も紙芝居屋の申し出を了承します。その代わり、テキヤの商売とは一線を引かなければなりません。まず、テキヤの縄張りでは商売しないことになり、路地・空き地・公園などが紙芝居屋の居場所となりました。
そして見物料ではなく、飴を売ってその売り上げを利益とするシステムをとります。路地や公園ではテントを張れないので、興行として成立せず見物料をとることはできないからだといわれています。