過去何度かに渡って吉原遊廓の風俗をご紹介してきましたが、今回は吉原遊廓にいる幼い禿(かむろ)が女郎になるまでをご紹介します。
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吉原遊廓の禿(かむろ)になるまで
江戸時代の吉原遊廓を描く浮世絵などに見られる女郎見習いの少女の事を「禿(かむろ)」と言います。禿になる少女には、二つパターンがありました。
ひとつは、貧しい漁村や山村の娘が、家庭の生活苦から吉原遊廓の女郎屋に売られてくるパターン。少女たちの売買を斡旋する人物は「女衒(ぜげん)」と呼ばれ、少女たちの容姿や潜在能力を瞬時に見極めて「上玉、並玉、下玉」などに格付けし、価格や売り先を見定めました。
もうひとつは女郎がこっそり生んだ娘がそのまま女郎屋に引き取られて禿になるパターン。避妊具も確立していない当時、女郎の妊娠は珍しくありませんでした。しかし妊娠を理由に仕事を休めばその分借金もかさむため、ほとんどの女郎は堕胎の道を選びました。したがって数は少なくなりますが、そういった経緯で禿になる子供も存在しました。
吉原女郎見習いとして修業の日々
花魁など高級女郎の下について、姉女郎の日々の着替えを手伝ったり頼まれ事をきいたり、小間使いとして毎日働きながら、女郎としての立ち居振る舞いを学びました。姉女郎の方は、暇を見てこの禿たちに三味線や舞など諸芸の稽古をつけてやりました。
成長して禿を卒業すると「新造(しんぞう)」と呼ばれる立場になり、女郎としての修業も段々実戦的になっていきます。「名代(みょうだい)」として姐さん女郎の具合が悪い時には代わりにお客さんの相手をする事もありました(ただし床入りはなし)。いよいよ新造としても充分習熟したとなれば、ついに一人前の女郎としてデビューします。