なぜこの人が百人一首に選ばれて、この人が選外なの?
『百人一首』は、その名の通り奈良時代から鎌倉時代までの百人の作者の歌が、1人につき1首ずつ選ばれた歌集です。その中には小野小町・在原業平・西行などの名高い歌人や、紫式部・道綱母・清少納言などの優れた文学作品の作者が名を連ねています。
しかし中には、猿丸大夫のような実在したかどうか分からない人物や、蝉丸のように存在こそしたものの詳細が全く不明な人物、そして「なぜこの人(だけ)が敢えて選ばれたの?」と不思議になるような人物が、何人も選ばれています。
その一方で「え?あの人は?」というほど意外な人物が選ばれていません。
今回は、「百人一首」に採り上げられた意外な人物と、その一方で採り上げられなかった意外な人物に注目してみましょう。
権力者の夫や義弟も、皇后の娘も選ばれなかったのに・・・儀同三司母
忘れじの 行く末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな
第54番目のこの歌の作者・儀同三司母は、本名・高階貴子(たかしなのたかこ/きし)。この歌の詞書には「中関白(藤原道隆)かよひそめはべりけるころ」とありますが、彼女は関白・藤原道隆の正室で、皇后定子や兄の伊周・隆家兄弟の生母だった女性なのです。
(画像出典:Wikipedia/高階貴子)
「儀同三司」というのは、儀礼が「三司」つまり太政大臣・左大臣・右大臣と同じであるということです。息子の伊周が内大臣になったことから、彼の母という意味でこう呼ばれました。
皇后定子に仕えた清少納言は、『枕草子』の中に
「それなりの家の娘さんなどは、宮仕えに出て世の中への見聞を深めるべき」
という内容を書き残しています。
彼女がそう考えるようになったのは、宮仕えがきっかけで道隆と出会った儀同三司母の影響が大きかったようです。
その一方で、彼女の夫である道隆や、その後最高権力者となる義弟の道長、そして子供の定子や伊周の歌も選ばれていません。