前回、得意の戦法で鎌倉幕府を倒し、“日本をせんたく”した楠木正成の活躍について紹介しました。楠木正成の紹介記事一覧はこちら。
其の参では、彼の身に降り掛かった悲劇の幕開けについて紹介します。
新政が天下に混乱をもたらし、ついに盟友尊氏が離反!
後醍醐天皇と朝廷の貴族を中心とした建武の新政は、天下を正すべく行われましたが、功績の無い貴族層による利権の独占が目立つようになり、割を食った武士達は不満を抱きます。武士の土地と言うのは生活基盤だけでなく、戦の功績など名誉ある褒美として賜ることもあったので、彼らが面目を潰されたと考えたのは、想像に難くありません。
そうした武士達が頼ったのは、後醍醐天皇が“功績第一”として褒め称えて高い官位と自分の名前から一字を与えて“尊氏”と改名させた足利高氏でした。高氏あらため尊氏は、正成と共に鎌倉幕府を討った仲間でもあり、建武2年(1335年)に北条氏の残党を討つために鎌倉へ行っていました。
しかし尊氏は鎌倉で政権を樹立し、朝廷に不信を抱く武士の総帥として謀反を起こしたのです。一見すると『謀反人=悪人』というイメージになりがちですが、本来の彼は後醍醐天皇を尊敬する忠臣でした。しかし、お人好しな上に人望がある尊氏は、武士達に突き動かされてしまったのです。いずれにしても、共に戦った二人は不幸な形で引き裂かれてしまったのでした。