江戸時代、吉原遊郭までの交通アクセスは徒歩?駕籠?舟?何がベストだったの?

阿部裕子

駕籠と舟を利用して遊廓へ

吉原に行くとき、人々は徒歩駕籠を利用しました。寛文元年(1661)に馬での登楼を禁止されたことで、駕籠や舟を利用するようになったのですが、それでも馬に乗る人もいたようで寛文8年(1668)には、再度、馬での登楼禁止のお触れが出されました。

吉原行きに使われた駕籠は、四手駕籠早駕籠の2種類。よく使われたのは、後ろと前の棒を2人で担ぐ四手駕籠です。ただ急いでいる場合は、担ぎ手が疲れたら途中で交代して道をとばせるよう3人か4人が付きそう早駕籠を使うこともあったそう。

舟の場合は、まず柳橋の船宿で舟を雇います。そして隅田川を遡り山谷堀(さんやぼり)で下船し、船宿で一服してから、徒歩または駕籠で吉原に向かうのです。舟には屋型舟、屋根舟、猪牙舟(ちょきぶね)がありましたが、主に吉原通いに利用されたのは猪牙舟でした。

猪牙舟ってなんだかユニークな名前ですよね。この名前の由来にはいくつかの説があります。長吉という名前の船頭がいたのでその名前を縮めて猪牙舟になったとか、速く進む様子がまるで猪のようだから、という説が残っています。

舟を利用する人が増えると、自然と舟宿も繁盛します。舟宿は、茶屋としても重宝されていたようです。

ただ、駕籠や舟は便利ではあるけれど、費用もかかってしまいます。駕籠、舟のどちらでも、吉原に向かうときは、運賃に加えて祝儀代が必要になりました。遊廓内でも散財することは避けられません。1人の遊女と1日遊ぶと、今でいうとおよそ8万円ほどの出費となりました。よほどリッチな、大店の主や大名・家老クラスでないと厳しいですよね。そう考えると、やはりお金がかからない徒歩が一番いいのかもしれません。

3ページ目 五十間道を通ればもうすぐ大門

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