ふんどし野郎こと松平定信(井上祐貴)の御政道「寛政の改革」を風刺した黄表紙『天下一面鏡梅鉢』を絶版処分にされてしまった唐来参和(山口森広)。
大河ドラマ「べらぼう」の第37回「地獄に京伝」では蔦重(横浜流星)からの依頼を断るため、逃げ出してしまいました。
果たして唐来参和は、その後どうなるのでしょうか。
※『天下一面鏡梅鉢』について:
【べらぼう】寛政の改革で絶版処分に!唐来参和(山口森広)作『天下一面鏡梅鉢』とはどんな作品だった?
黄表紙に復帰はするものの……。
寛政元年(1789年)に出版された『天下一面鏡梅鉢』が絶版となり、唐来参和はしばらく断筆してしまいます。
(大河べらぼうでは、これを「逃げ出した」ものとアレンジしたのでした)
やがて再び筆をとり、寛政5年(1793年)に黄表紙『再会親子銭独楽(めぐりあう おやこのぜにごま)』を出版します。
また寛政7年(1795年)には『善悪邪正大勘定(ぜんあくじゃしょう おおかんじょう)』を出版しました。
そして蔦重(初代)が世を去った翌寛政10年(1798年)に『家内手本用心蔵(かなでほん ようじんぐら)』と『曽我物語嘘実録(そがものがたり うそのじつろく)』を出版。これ以降、黄表紙は出していません。
いずれも御政道批判や風刺ではなく、娯楽性の強い作品となっていました。
唐来参和の生涯・武士から町人に
そもそも唐来参和とは何者だったのでしょうか。
唐来参和は延享元年(1744年)に誕生。蔦重より6歳年長ですね。
本名は加藤源蔵(かとう げんぞう)。元は某高家に仕える武士であったのが、天明年間(1781〜1789年)に町人となり(理由は不明)、江戸本所松井町にある娼家・和泉屋の婿入りしたと言われます。
一説によれば、安永年間(1772〜1789年)末期から天明初頭にかけて、志水燕十(加藤虎之介)の戯作を代筆していたとか。
唐来参和の筆名で戯作を手がけたのは、天明3年(1783年)の洒落本『三教色(さんきょうしき)』から。
それから『大千世界牆の外(だいせんせかい かきねのそと。天明4・1784年)』『和唐珍解(わとうちんかい。天明5・1785年)』『莫切自根金生木(きるなのねからかねのなるき。同年)』などの作品で世を沸かせました。
更には『頼光邪魔入(らいこうのじゃまいり。同年)』『通町御江戸鼻筋(とおりちょう おえどのはなすじ。天明6・1786年)』『冠言葉七目十二支記(かぶりことばななつめのえとき。寛政元・1789年)』とその筆が冴えわたります。
そして『天下一面鏡梅鉢』でお咎めを受け……これで一巡しました。
