江戸時代の幕府公認遊廓、吉原。ひとくちに吉原といっても、江戸時代初期に日本橋にあった元吉原、1657年の明暦の大火後に浅草の裏手に移動してからの新吉原の2つあり、落語などに出てくる「吉原」はたいてい新吉原の事を指します。
今回はその新吉原遊廓で妓楼(女郎屋)の中に暮らしていた人々を紹介します。
楼主
妓楼の主人は楼主と呼ばれました。妓楼は2階建ての建物が多く、2階には座敷などがあって客を通し、1階の奥に楼主とその家族の生活スペースがありました。たいていは楼主とそのお内儀(妻)を中心とした家族経営で、お内儀がいれば当然子供もおり、そこには他と変わらない家族の営みがありました。
女郎を売るという職業上、楼主は「人の持つ8つの徳を忘れた非情な人間」という意味の「忘八(ぼうはち)」とも呼ばれました。
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実際、悪い人ではなくとも女郎屋の経営は生半可な覚悟でできるものではなく、経営者としてシビアな側面が必要であった事は間違いないでしょう。
しかし女郎に全く感謝がなかったかといえばそうではなく、毎年正月には女郎たちに新しい小袖をプレゼントしていた事も事実でした。
遣り手(やりて)
いわゆる「遣り手ばばあ」とはここからきています。妓楼には、女郎の世話を焼く中年女性がかならず1人いました。それが遣り手です。
遣り手のほとんどは元女郎。女郎として年季(何年間働きますという奉公の契約)を勤め上げ、借金を返し終えても吉原に残る道を選んだ、ある意味吉原最強の女性かもしれません。
それだけに現役の女郎にはとても厳しく、逐一監視して小言を言ったり、悪さをすれば折檻したりと、嫌われる仕事を率先して請け負っていました。
