武器を没収しない「刀狩り」!?
今の時代は、法的にも倫理的にも庶民が「暴力」を振るうことは認められていません。では、ずっと昔はどうだったのでしょうか。これについて、豊臣秀吉のいわゆる「刀狩り」「喧嘩停止令」に焦点を当てて見ていきましょう。
刀狩りと聞くと、百姓を丸腰にしたイメージがあるかも知れませんが、実際には文字どおりの武装解除ではありませんでした。
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そもそも、中世では農村部でも男性は成人とともに刀を所有していました。刀以外にも、弓や鎗、鉄砲などを、鳥獣の駆除や村の治安維持、縄張り争いなどの際に用いていたのです。
秀吉による刀狩りは名目上は武器の没収を表明したものの、実際には、村々に多くの刀や鉄砲が残されました。
なぜなら刀狩りの重点は、すべての武器を百姓から没収することではなく、兵農分離のために百姓の帯刀権や村の武装権を規制し、それらを武士の特権とすることに置かれていたからです。
従って、村で日常的に使用する小さな刀や鉄砲・鎗などがすべて没収されることはありませんでした。
村の「合戦」を禁止
また刀狩りと並行して、秀吉は村々の武力抗争を規制しています。
用水の使用などをめぐって村々の争いが起きた際には、実は農村でも弓や鎗を持ち出して馬に乗るような、まさに合戦が繰り広げられることすらありました。
しかし秀吉の時代にはこうした村の武力紛争を違法とし、代表者を処刑する判例が多く出されています。
こうした一連の判例は一般に「喧嘩停止令」と呼ばれています。「刀狩り」とこの「喧嘩停止令」の二本柱によって、村々には多くの武器が残ったものの、それらを紛争に使用することは禁じられたのです。
さらに江戸時代にはこの「喧嘩停止令」が法として継承され、百姓身分の武力紛争は禁じられました。しかし秀吉の時代と同様に、武器となる物を所持するだけではお咎めを受けることもありませんでした。
