重要だった「足軽」
武士の身分のひとつに「足軽」がありますが、もともと足軽は「よく走る者」という意味で、軽装歩兵の呼称です。戦国時代以降に組織化されました。
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江戸時代になると、足軽は諸藩の歩卒のことを指し、士分と区別され武士の屋敷で門番や雑役などをこなした最下層の武士という位置づけでした。
しかし戦国時代の足軽は、ふだんは雑役を務めつつも戦時には弓・槍・鉄砲などの部隊の兵士となる、重要な戦士だったのです。
足軽を日本で初めて組織したのは、かの太田道灌だと言われています。基本的には農民から募集されていましたが、合戦で武勲をあげて出世した者も少なくありませんでした。
特に、鉄砲が普及してからはその重要性が増し、信長の足軽鉄砲隊をはじめ、多くの合戦で活躍しています。
武田信玄の「足軽大将衆」
さて、以前の合戦では一騎打ちのような「個と個」のぶつかり合いが主でしたが、戦国時代に入ると合戦が大規模化して集団同士の戦いになり、同時に軍も細分化されていきます。
そんななかで生まれたのが足軽大将という役職でした。
足軽は敵のかく乱やゲリラ戦などを得意として、軍の中心的な戦力を担うようになっていきましたが、次第に組織的に動くように訓練がなされていきます。それらの足軽部隊を統率したのが、足軽大将だったのです。
戦国時代、足軽部隊を最も巧みに組織した戦国大名として有名なのは武田信玄です。
武田氏の戦略が記された軍学書『甲陽軍鑑』では、足軽大将衆として21人の武将名が記されています。
中でも特に優れた原虎胤・小畠虎盛・横田高松・多田三八郎・山本勘助の5人を「めいぢん5人」と命名していました。
彼らはいずれも他国出身の元牢人(主家を持たない流浪の武士)でしたが武道に優れており、彼らは今川氏や後北条氏らとの戦い、さらに信濃侵攻でも活躍したとされています。