戦国時代、借金のカタに国土を譲渡!?日本の国土が外国領土になったのは昭和だけではなかった

歴史 好き太郎

沖縄でもなく、小笠原諸島でもなく…

第二次世界大戦の敗戦国となって、日本は連合国軍の占領下に置かれました。そして、サンフランシスコ講和後も、沖縄と小笠原諸島が長らくアメリカの統治を受けることになっていました。

また小笠原諸島は、江戸時代にイギリスの領土だった時期もあります。それだけ聞いても驚く人もいるかもしれませんが、しかし実はそれ以前にも、外国領土になったことのある町があります。

それは長崎です。

詳しい経緯を説明しましょう。もともと長崎は、秀吉の時代にポルトガル商人によって見いだされ、整備された港です。

来日したポルトガル人は、最初は平戸へ入港していましたが、平戸の領主だった松浦氏はキリスト教に関心を示しませんでした。

そこで、キリスト教の布教が目的の一つだったポルトガルは平戸をあきらめ、横瀬浦福田浦に寄港するようになりました。

ところが、横瀬浦は、大村藩の内紛によって焼き討ちに合います。一体何が起きたのでしょうか。

大村純忠の政策

横瀬浦を使用する許可を、大名の大村純忠から取りつけたのは、元商人であるイエズス会士ルイス・アルメイダでした。

彼の交渉によってポルトガル商人は10年間関税を免除されることになり、イエズス会には許可なしにはキリスト教徒以外は住めない土地が与えられたのです。

こうして教会が建てられ、商人たちが押し寄せた横瀬浦はすぐに栄えた港となりました。1563年には、大村は横瀬浦の教会で洗礼を受けてバルトロメオという洗礼名を授かり、日本初のキリシタン大名となっています。

いえずすかい 大村純忠(Wikipediaより)

しかし、大村のキリスト教に対する熱意は家臣の反感を買い、これに乗じて反純忠派の家臣たちが横瀬浦を焼き討ちしました。

さらに福田浦も、外洋に面していて停泊に不便ということもあり、ポルトガルはより良い港を求めて長崎地方一帯を測量して歩きました。

その結果、目を付けたのが長崎だったのです。

3ページ目 借金のカタに長崎を譲渡!?

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