平安時代、娘を次々と入内させたことで皇室の外戚となり、権力の絶頂を極めた藤原道長。
彼の偉業は彼一人で成し遂げたものではなく、その陰には多くの者たちが力を尽くして仕えていました。
今回はそんな一人である藤原惟風(これかぜ)を紹介。道長の家司を務めた生涯をたどってみましょう。
若いころから武官を歴任
藤原惟風は生年不詳、藤原文信(のりあきら)と清原中山女(きよはらの なかやま娘)の間に誕生しました。
弟妹に藤原惟貞(これさだ)・藤原惟忠(これただ)・女子(源奉職室)がいます。
※一説には藤原惟房(これふさ)も弟とか。
若いころから大宰大監(だざいのだいげん/だいじょう。大宰府の三等官)を経て右衛門尉(うゑもんのじょう)・検非違使(けびいし)と武官を歴任します。
正暦年間(990年-995年)に藤原高子(こうし/たかこ。のち藤原儷子、藤原灑子)と結婚、正暦4年(993年)ごろ嫡男の藤原惟頼(これより)や藤原惟経(これつね)を授かりました。
ほか生母不詳の藤原惟房(これふさ。弟説もあり) ・藤原惟佐(これすけ)・藤原惟綱(これつな)・藤原頼兼(よりかね)・覚胤(かくいん。僧侶)・女子(源頼平室)を授かっています。
そんな中、長保5年(1003年)に下総国(千葉県北部一帯)で平維良(これよし)が謀叛を起こし、国府を焼き討ちして官物を掠奪。越前国(福井県東部)まで逃亡する事件が起きました。
すると惟風に白羽の矢が立ち、平維良を追捕する押領使(おうりょうし)に任じられます。果たして武勲を立てたのか、気になるところですね。