南北朝時代、そもそも後醍醐天皇はなぜ「吉野」の地を根拠地としたのか?その3つの理由

建武の新政から南北朝時代へ

鎌倉時代の末期、後醍醐天皇の命によって各地の武士が発起。当時、権勢を握っていた北条氏に対して反乱を起こし、鎌倉幕府は滅亡します。そして有名な建武の新政が始まりました。

その後、足利尊氏が天皇に対して反旗を翻し、いったんは敗れて九州に落ち延びますが、1336年(延元元)に京都を目指して東上を開始しました。

彼は京都防衛のために出陣してきた楠木正成を摂津の国の湊川の戦いで破り、京都を奪還。そして光明天皇を擁立し、自身は征夷大将軍となって室町幕府を開きます。

一方、天皇の座を追われた後醍醐天皇は、比叡山に立て籠もって半年間抵抗しますが、11月には尊氏と講和を結びます。

そして天皇のしるしである三種の神器を光明天皇に譲って、自身は花山院(今の京都御苑内にあった屋敷に軟禁されました。

ところが翌月、後醍醐は花山院を脱出し、伊勢にあった北畠親房と楠木一族の手引きで吉野へ逃れます。

さらに、光明天皇に渡した三種の神器は偽物であるとして、自らの皇位の正当性を主張したうえ、「延元」という元号を復活して全国の武士に向けて足利討伐を呼びかけました。

このようにして、京都の北朝吉野の南朝という二つの朝廷が並び立つ南北朝時代が始まったわけです。

ではそもそも、なぜ後醍醐天皇はここで「吉野」を根拠地としたのでしょうか。これにきちんと答えられる人は実は多くはいないでしょう。

3ページ目 吉野は防御・補給に適していた

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