即位式もできないほど窮乏!天皇家は「応仁の乱」で焼け野原になった京都でいかにして生き延びたのか?

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戦乱で援助を断られる

15世紀半ばには、発生してから11年間もの長きにわたって続いた応仁の乱で京都は焼け野原になりました。そんな京都で、当時の天皇家は一体どのようにして生き延びていたのでしょうか。

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天皇家なら、たとえ焼け野原でも生き延びるだけの資金があるだろう……と思われるかも知れません。しかし当時の天皇家の収入は中級クラスの公家と同程度でしかありませんでした。

そう、この頃の天皇家は、政治的にも経済的にも室町幕府に依存している状態だったのです。言い換えれば、室町幕府が天皇家のパトロンのような存在でもあったと言えるでしょう。

しかし応仁の乱によって室町幕府の権威は完全に地に落ち、経済的にも逼迫していきます。こうなると、幕府も天皇家を支えることはできません。

実際、1500(明応9)年には後土御門天皇が死去しましたが、次の天皇である後柏原天皇は、政治的な混乱と経済的な事情のため即位式さえ行うことができませんでした。

このとき後柏原天皇は、管領の細川政元に費用を出して欲しいと依頼しましたが、

「内裏にも即位礼御儀無益なり、さ様の儀を行ふといへども正体無き者は王とも存せざる事なり。此分にて御座候といへども、愚身は国王と存じ申す者なり。然れば、一切大儀共末代不相応の事なり。」

とすさまじい返答をして断られています。

あろうことか、諸家や公武もこれに同意します。当時は公家たちも地方に離散していました。公卿たちの住居もほとんどが戦火を被ったため、諸国の大名たちの庇護を受けている状態だったのです。

そうした背景もあり、即位式は取り止めとなったのでした。

2ページ目 それでも残った天皇家

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